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八代亜紀

公開
2012/10/26   12:08
ソース
intoxicate vol.100(2012年10月10日発行号)
テキスト
文 天辰保文

深い闇から、人間の営みさえも引き寄せる歌声

なにしろ、八代亜紀がジャズを歌うのだ。《フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン》や《クライ・ミー・ア・リヴァー》を、《サマータイム》や《枯葉》といったスタンダード・ナンバーを歌うのだ。それだけでも、一度は聴いてみたいという誘惑から逃れるのは難しい。手元の資料によれば、「ナイトクラブで歌い始めた頃を思い出して」作ったらしく、またそこには、《フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン》は12歳の頃に父親が買ってきたジェリー・ロンドンのレコードを聴いて好きになり、10代に歌い込んだとも記載されている。それどころか、当時十八番だったとも。

プロデュース&アレンジは、小西康陽。中には、《スウェイ》のように、小西が日本語の歌詞を用意したのもあるし、《五木の子守唄》と《いそしぎ》を合体させたのも彼の提案だったらしい。しかし、気負いのない、自然な流れが歌の一つ一つを、アルバム全体を印象づけているのは、八代亜紀本人がこれらを歌いたいという切実とした思いで、歌に向き合った証拠だ。

《枯葉》の囁くような優しさはどうだろう、と思う。《スウェイ》の可憐さはどうだろう、とも思う。ボサ・ノヴァ・アレンジの《ワン・レイニー・ナイト・イン・トーキョー》にも驚く。歌たちはアコースティックで達者な演奏に寄り添いながら、特別な時をゆっくりと刻み込んでいく。功を焦らず、とても丁寧に且つ大胆に。歌と演奏とが粘り強く絡んだかと思えば、サラリと見事な距離をとったり、まるで、女と男の微妙な関係さえもがそこで繰り広げられているかのようだ。

ただ、ただ、さすがだな、という思いが強い。極端に言えば、ジャズだとか、ボサ・ノヴァだとかはどうでもいいような、八代亜紀という唯一無比の存在感に溜息を漏らさずにはいられない。優れた歌手は、その人なりの時間というものを身に着けていて、日常から我々を切り離してその宇宙に引きずり込むものだが、これは正しくそれだ。艶やかに、闇に囁きかけるように、彼女は歌う。普段なら腕力でねじ伏せるところも、濡れ縄でジワジワと我々の首を──、いや、心を引き寄せるかのような趣きで。そしてそのとき、深い闇の中に潜むありとあらゆる人間の営みをも一緒に引き寄せる。静かで、その秘めやかな力に、我々は立ち止まらざるを得ないし、耳をそばだてずにはいられないのだ。そう言えば、アルバムには、『夜のアルバム』と名がつけられていた。

LIVE INFORMATION
『アン・イヴニング・ウィズ八代亜紀』

11/9(金)19:00開演/21:30開演(2回公演)
会場:ブルーノート東京
http://www.bluenote.co.jp