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Miles Davis『コンプリート・アムステルダム・コンサート1960』

カテゴリ
o-cha-no-ma LONG REVIEW
公開
2013/04/25   13:05
ソース
intoxicate vol.103(2013年4月20日発行号)
テキスト
text:松村正人

1960年4月9日深夜。ヨーロッパ音楽の殿堂、オランダ・アムステルダムのコンセルトヘボウで行われたコンサートの模様。左から、コルトレーン、マイルス、ウィントン・ケリー、ポール・チェンバース、ジミー・コブ。コンセルトヘボウは世界有数の音響を誇るホールとしても知られ、本作も1960年とは思えないほど鮮明な音質で記録されている。

アムステルダム、1960年4月9日深夜。半数の観客が怒り、戸惑いながら会場を後にした伝説の
コンサートの全貌。コルトレーン脱退直前のクインテットが、いま語り始めるジャズ史の死角──

『コンプリート・アムステルダム・コンサート1960』は、前年に『カインド・オブ・ブルー』を吹き込み終えたマイルスが興行主、ノーマン・グランツによる〈JATP〉(ジャズ・アット・ザ・フィルハーモニック)シリーズの一環としてヨーロッパをツアーしたなかから、4月9日と10月15日のアムステルダム・コンセルトヘボウでの演奏を収めたものである。編成はいずれもクインテットで、マイルス以下、ウィントン・ケリー、ポール・チェンバース、ジミー・コブのリズム・セクションに、春はコルトレーンが加わっていた。秋にそれがソニー・ステットにチェンジしたのは、やはり前年にコルトレーンは『ジャイアント・ステップス』を録音し、独立してやっていきたかった──それをマイルスが説き伏せツアーに帯同させたからである。グランツの組んだ日程はパリ、ストックホルムのほかドイツ国内をめぐり、4月8日にチューリッヒを訪れた一行は翌日の朝早く、北海に面したデン・ハーグに飛ばなければならかった。しかもその日はスヘフェニンゲン(デン・ハーグ)とアムス、電車で小一時間ほどの距離とはいえ、違う場所で2公演こなさなければならなかった。マチネとソワレというには変則的なこの日深夜の演目が、『カインド~』収録曲とハード・バップ期のもの半々の本作ディスク1の前半にあたる。この年の欧州楽旅の音源が重宝がられるのは、マイルスとコルトレーンの最後の共演だからであるが、彼らジャズの偉人たちより、その裏にある音が直接語る背景こそ、本作の主役である。

58年の『マイルストーンズ』からはじまったモードの探求が最初の完成をみた『カインド~』ではビル・エヴァンスの色彩がマイルスの補色となっていたが、録音から1年経った欧州ツアーではあの浮遊するメランコリックなモードは60年代の仕様(モード)にきりかわっていた。と同時に、コルトレーンのサックスと身体をともに拡張する実験という名の訓練は、和声の縦軸とモードの横軸からなる座標全体を埋めつくす欲望を秘めていた。ところが両者は本作ではさほど対照的ではない。というのも、「彼らは、コルトレーンは単に疲れていただけかも知れないと推測した」批評家もいた、と本作のライナーノーツに、このとき18歳だったジャズ・ジャーナリスト、ベルト・ヴァウシェが書いた通り、ラジオで生中継された数時間前のスヘフェニンゲンの《ソー・ホワット》(このテイクは『Live In Den Haag』や『カインド~』のレガシー・エディションでも聴ける)と較べても真夜中のコルトレーンはどこかうつろだった。それでも物議をかもすにはことかかなかった。59年8月リリースの『カインド~』は欧州大陸に充分に行き渡っていなかったのである。昔はいまよりずっと音盤の伝播にタイムラグがあった。そして聴衆は既知の音を期待するのではないにしても、夜更けのコンサートに足を運んだ熱心なリスナーであっても、というか、熱心であるからこそ、新しいジャズにとまどいをおぼえた。撥ねつけるようなヒップな空間を構成するマイルスと、開眼しはじめたコルトレーンのハーモニクス奏法。そこには音の唯物論者たるマイルスと、神秘主義者としてのコルトレーンという思想の対比さえうかがえたはずだが、すべてはやがて決定的となるものとしていまだ留保が付されていた。考えようによっては、このアンビヴァレントなテンションほどマイルスらしいものはない。

私たちは過去を探るとき、現在の概念を過去にあてはめる。あるいは史実を検証し論を組み立てるが、史実というそれ自体、死角を含むものの堆積の上に成り立つ認識は誤差とつねに無縁ではない。音楽も、再発、発掘音源がなんら珍しいものでなくなり、アーカイヴという名のバベルの図書館が一般に開架されたいまとなってはむろんのこと。少々天の邪鬼な意見かもしれないけれども、私はいまは聴く前にわかった気になるのではなく、このCDの裏ジャケのコンセルトヘボウに詰めかけた聴衆のように、わからないまま一心に耳を傾けることで音楽に参加すべきだと思う。そのとき音楽を聴くことは背景にとどまるものではない。

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