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Sir Simon Rattle

公開
2013/08/23   22:07
ソース
intoxicate vol.105(2013年8月20日発行号)
テキスト
text : 木幡一誠

©Monika Rittershaus

指揮者と楽員の理想的な
分業と協業
そこから浮かび上がる
作曲家の危険な精神世界

ラトルとベルリン・フィル(BPO)がやって来る。予定の公演プログラムは右下枠内をご覧のとおり、サー・サイモンの面目躍如だ。ブーレーズにブルックナーという取り合わせの妙! 初演100周年で話題を呼ぶ「春の祭典」には、最近の彼が意識的に取り組むシューマンの交響曲から「春」を対峙させ、樫本大進のソロによるプロコフィエフを挿む……。

アルバムのリリースも控えている。「春の祭典」を軸としたストラヴィンスキー作品集に続く、来日直前の新譜はラフマニノフ。キャリア初期の1980年代前半に果たした「交響的舞曲」や交響曲第2番の録音からも明らかなとおり、ラフマニノフはラトルのレパートリーの中に思いのほか重要な位置を占めてきた。この作曲家一流の甘美な叙情味の陰に潜むモダニズムの牙が、彼の関心をそそるのだろう。

合唱交響曲「鐘」の初演も実は1913年。そこにラトルも着目し、上記「春の祭典」がライヴ収録されたのと同じ、2012年11月のコンサートの前半を飾る演目に組んだ。今度はその音源がCDでお目見えという次第。

「大地を割って噴出するようなエネルギーと共に訪れるロシアの春」が霊感の源泉だとストラヴィンスキーは語り、「ロシア人に揺りかごから墓場まで付き添うのが鐘の音。私が自作で聴き手の心に響く鐘の音を作り出せたなら、それは人生の大半をモスクワの鐘に包まれて送ってきたから」だとラフマニノフは述懐する。各人各様に音楽へ封じ込めた根源的なものを、第一次世界大戦(そして何よりロシア革命)直前という、運命的な作品の生誕時期と関連づけながら解き明かす。実演の場にはそんな意図もこめられていたと推察できますね。

ポーの詩に基づき、バリモントが二次的創作に近い態度で編んだロシア語訳をテクストとする「鐘」。4つの楽章が順に銀、金、銅、そして鉄の鐘を象徴的な存在として抱きながら、若年期、婚礼、激動期、そして死という人生の諸相を映し出す。この新盤は全体的に演奏時間が短めで、フォルムとしての凝縮度が高い。合唱と管弦楽のみによる第3楽章などは、「シンフォニーでいえばこれがスケルツォ!」といわんばかりで、リズム動機の鋭いシェイプが際立つ。1楽章ずつソロを受け持つ独唱陣も感情表現の深さには事欠かないが、広大なパースペクティヴないし時間軸を背景としながら思い入れたっぷりの挙動で役を演じるというよりは、精緻に整えられたオーケストラがおりなす心象風景の一員としてうまく収まったように見える。合唱は言葉の扱いが丁寧だが、声質面での(ロシア的な?)陰翳や重みには欠ける。しかしそれゆえ、ラトルがとる前述のテンポ感や、オスティナート音形の扱い方とあいまって、第1楽章や第3楽章で力感を発散させるくだりが、どこか「カルミナ・ブラーナのラフマニノフ版」めいた趣を呈したりする。時代からすれば先駆的な発想と書式だし、こちらのほうがいっそう過激で精気に富むと思わせるのだから、それはそれで一興。

「愛と死」を見つめるラフマニノフ

BPOのニュアンス豊かな合奏が存分に力を発揮しているのは、緩徐楽章にあたる第2・第4楽章。婚礼を描く前者が、グレゴリオ聖歌「怒りの日」の変容とおぼしき動機と「トリスタン和声」のエコーが混在する音楽なのもラフマニノフ的だが、その矛盾をはらんだ官能美を、指揮者ともども見事に肉体化してみせる。死をテーマにした終曲は、内心の絶望が透明な諦観へ変容する過程を繊細な響きのグラデーションで彩り、これまた間然するところなし。変ニ長調へ転じたパッセージが安住の地を見出していくスコアの最終頁に、マーラーの交響曲第10番(ラトルの十八番)のフィナーレがオーバーラップしたりもする。これはつまりそんな「鐘」だ。

かたや「交響的舞曲」は2010年11月にシンガポールで収録された、既に映像ソフトでも出回ったことのある演奏。ラフマニノフが最後の大作に託した郷愁や追憶の念(第1曲中間部で管楽器が吹く胸に染みるソロ!)、異国趣味的な楽想、そして「鐘」にも増して明確な引用がなされる「怒りの日」など、多種多様な要素をメリハリも強く、そしてカンタービレの色も濃厚に描き分ける作業は半ばオーケストラに委ねながら、細部の楽器法やリズムの仕掛けを入念に整理統合する作業に指揮台の上でいそしむ。そんなラトルと楽員の分業&協業は、この時点で理想的な次元に達していたようだ。全曲の最後でトゥッティの和音が鳴り終わった後も、銅鑼の振動音のみ余韻が消えるまで残す解釈は(ラトルなど、一部の指揮者が採用)、これが死の象徴にもなる打楽器であることを鑑みれば、「鐘」に続く作品の身の引き方として誠にふさわしい。死せる魂の彷徨よろしく展開される、不思議と実体感の薄いダンスの集合体。怖い音楽を書いてくれたものだ。それはラトルとBPOが、表面的な旋律美に溺れずスコアを解きほぐし、“憂い顔をしたロシアの巨人”の精神世界へ肉薄したがゆえに浮かび上がる真実でもあろう。




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