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ヴァレリー・アファナシエフ 特別寄稿:死と愉しみ(全訳)第3回
intoxicate誌2/20発行vol.72で特別寄稿いただいたものの、全文をイントキ・ブログにて毎週アップしていく予定です。内容は、2007年11月来日時に行われたレクチャーです。レクチャーで翻訳をされた田村恵子さんに多大なるご協力をいただきました。ありがとうございました。(協力:コンサートイマジン)
第三回
ポール・リクールはカタルシスの効果は芸術作品の形式、その根本的な有限性に由来するのだと主張するジェームズ・レッドフィールドの説を支持しています。作品は鑑賞する者を不純な状態から純粋な状態に導きます。そして、形式を備えた芸術こそが-つまり作品の構造こそが-不純な状態に打ち勝つのです。作品は完成されています。それは、ある意味でコンパクトなものです。不幸がそこに全て収められ、外部には分からないようになっています。そして、掌にのせて、遊ぶこともできます。しかし、作品が如何に有限であっても、楽曲は私たちの手からは遠く隔たり、頭脳とも距離をとっています。皆さんもよくご存知のように、音楽とは近寄りがたいものなのです。前回のレクチャーでもお話したように、音楽は近寄ろうとすると、身を引くものなのです。ハイデッガーは芸術作品が観衆や読者、また聴衆を前にしてある動きをする、と語っています。作品は私たちに寄り添ったかと思うと遠ざかります。芸術作品に親しむほどに、この潮の満ち引きは頻繁に起こるようになります。でも、たまさか、近寄ったり遠ざかったり、意のままに戯れることのできる作品に出会うこともあります。しかし、楽曲とこのような関係を結ぶことは、おそらくないでしょう。
オペラ作品では、カタルシスが待ち構えていることもあれば、肩透かしを喰うこともあります。たとえばオペラ『ヴォツェク』を見てみましょう。物語はあるカップルの死を大変ドラマティックに描いています。エンディングはとても力強いものですが、そこでは子供たちが遊んでいる場面でカタルシスが表現されています。子供たちのなかには、死んでしまったカップルの息子も混じっています。ある子供が、両親を失ってしまった子供に向かって、こう言います。『死んでるのは、お前のお母さんじゃないか!』子供は棒切れでお馬ごっこをしています。母親の死を前にしても、遊び続けます。友達たちが、恐る恐る屍を見に行きます。ちょっと躊躇いますが、死んでしまった女性の子供も、死体の傍に寄ります。他の子供たちも続きます。この子供たちは、未来を担う世代です。もし、ベルクが同じテーマで交響詩を創る構想を抱いていたならば、必ずやヴォツェクの死をエンディングに持ってきて、カタルシスなどには目もくれなかった事でしょう。
私はショスタコヴィッチの交響曲第四番の創作に立会いませんでしたが、モスクワ音楽院の小ホールで行われたコンサートについてのエピソードは聞き及んでいます。演奏の最中に党の高官が心臓発作で死を遂げたとのことです。どうして、この高官は亡くなったのでしょう? それほどまでに心臓に疾患を抱えていたのでしょうか? おそらく、ショスタコヴィッチの音楽のような、罪の意識を抱かせるような類の作品を聞く機会を避けて暮らしていたなら、もう少しは長生きできたかもしれません。残酷な人たちでさえ、時には罪悪感を覚えるということなのでしょう。この党の高官は、ショスタコヴィッチの音楽に接して、逃げ場のない閉塞感に囚われたのだと思われます。この時、舞台上には子供の影はありませんでした。未来の世代は、この高官に許しも与えなければ、忘却という救いの手も差し伸べませんでした。彼は現在に閉じ込められ、楽曲の容赦ないリズムに絡め取られていました。この人物の心臓は作品という小宇宙のなかでは思うように働くことができなかったのです。音楽の有限性は、文学作品や絵画作品のそれよりも、はるかに完全なのです。
ショーペンハウアーは <形式を備えた意志は現在にのみ属し、過去にも未来にも属さない> と述懐しています。 <時はエンドレスに回転する輪に似ている。下降する弧は過去であり、上昇するそれは未来なのだ。上方にはタンジェントに接する分かつことのできない点があり、それは現在なのである。広がりのないこの点はタンジェントのように動かず、時間という形を持つ対象物との接触を示す。また、この点は主体とも接触するのである> 小説を読んでいると、過去と未来が私たち読者を覆い尽くしてしまうようです。それは、SF小説や歴史書を読んでいる場合に限りません。ところで、音楽は、私たちを過去と言う名の廃墟の上に聳え立つ現在の中に囲い込みます。そこでは未来は入り込むことができません。時に、死の意志が無理やり侵入することはありますが。
ショスタコヴィッチは映画音楽も手がけていますが、中でも秀逸なのは『ハムレット』です。映画のエンディングで、人々がハムレットを葬るために墓地に向かって歩いていきます。フォーティンブラスの台詞は次第に消え入ってしまいますが、これは未来、或いは繁栄を予告しているようです。ここでハムレットの死を強く感じ取ることが出来ます。そればかりか、私たち自身の死、そしてショスタコヴィッチの死すら、ひしひしと身に迫ってきます。このように音楽は、客観的で多くの人々が共有できる作品の本質に肉迫するのです。そこでは他の作品の主人公や、他のストーリーも聴く者の脳裡に浮かびます。しかし、『ハムレット』の映画音楽には死の影しか認められません。死の影のみが漂っています。
チャイコフスキーは音楽が自殺願望を引き起こし、それを完遂させることがあるということを承知していました。それならば、音楽は自死の手段として、服毒自殺やピストル自殺、または飛び降り自殺などという過激な方法よりも、ずっと良いではありませんか。音楽は人の気持ちをそそるものですし、完璧なものです。私たちの目論見など音楽にはお見通しで、テーマの展開に介入することはできません。音楽の方で、私たちの人生の展開を示してくれるほどですし、私たち人間の宿命すら開示してくれます。本当のところ、宿命には展開はありません。宿命は揺るぎないものです。またしても、同じ命題に突き当たりました。音楽は私たちに安らぎを与え、行く道を指し示してくれます。合い矛盾するものを、調和させてくれるのです。
ヴァレリー・アファナシエフ
1947年、モスクワ生まれ。モスクワ音楽院でヤーコブ・ザークとエミール・ギレリスに師事。1968年のバッハ国際音楽コンクール(ライプツィヒ)、1972年のエリザベート王妃国際コンクール(ブリュッセル)で優勝を飾っている。1973年にモスクワ音楽院を卒業、1974年にベルギーへ亡命した。以後、ヨーロッパ、アメリカ各地でリサイタルを行うほか、著名なオーケストラと共演を重ねてきた。日本へは、1983年にヴァイオリニストのギドン・クレーメルの共演者として初来日。1987年の《東京の夏音楽祭》のソロ・リサイタルで熱狂的な反応を呼び起こした。
レコーディングは、DENONを中心に20枚以上のアルバムをリリースしており、1992年には「ブラームス:後期ピアノ作品集」がレコード・アカデミー賞器楽部門を受賞。来日のたび、新録音リリースのたびに、独自の音楽性が論議を呼び、音楽界に大きな刺激をもたらしている。
ピアノ演奏にとどまらず、《失踪》、《バビロンの陥落》、《ルードヴィヒ二世》などの小説を発表する文学者の顔も持っている。フランス、ドイツ、ロシアでの出版に加えて、日本でも2001年にエッセイ集《音楽と文学の間》が出版され話題となった。また、ナボコフ、ボルヘス、ベケット、カフカ、ジョイスなどを愛読し、ヴィトゲンシュタイン、道教思想、インド哲学に傾倒していることでも知られる。
現在はパリを拠点に活動。現代におけるカリスマ的ピアニスト、指揮者として注目を集め続けている。
田村恵子
上智大学大学院博士後期課程修了。
専門は20世紀フランス文学。
フランス語、フランス文学を大学で講じる傍ら、
音楽、映画を中心に翻訳、通訳で活躍。
アファナシエフ氏のレクチャー通訳を
2001年より担当。