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カテゴリ : blog 

掲載: 2009年04月24日 18:45

更新: 2009年04月24日 18:45

文/  intoxicate

坂本龍一  インタヴュー(前編)
interview&text :小沼純一(音楽・文芸批評家/早稲田大学教授)



intoxicate vol.78(2/20発行)に掲載した坂本龍一氏のインタヴューですが、インタヴューをして下さった小沼純一さんのご厚意により、誌面のほぼ倍の文字数に及ぶロング・バージョンを本ブログに二回に分けて掲載させていただきます。泣く泣く削った箇所もバッチリ入った完全版です。



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インタヴューを読む



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(左から)



『out of noise』 /坂本龍一
パッケージレスCD [commmons  RZCM-46129]
数量限定フルアートワークCD [commmons  RZCM-46128] 



『音楽は自由にする/Musik macht frei』坂本龍一・著
[新潮社  ISBN:978410-410602-8]



『schola vol.2 Yosuke Yamashita Selections:Jazz』
[commmons  RZCM-45962



『commmons: schola vol.2 Yosuke Yamashita Selections: Jazz』 発売記念トークセッション&抽選会開催! 坂本龍一 x 大谷能生 ゲスト:山下洋輔

開催日:2009年5月5日(火)
時間:16:00
場所:タワーレコード新宿店7F
参加方法: 要整理券。予約者優先で『commmons: schola vol.2 Yosuke Yamashita Selections: Jazz』購入者に先着で優先入場整理券を差し上げます。※イベント当日、優先入場整理券をお持ちのお客様には抽選券を配布致します。
対象店舗:新宿店



その他詳細はこちらをご参照ください。



 






 



 







 



坂本龍一  インタヴュー(前編)
interview&text :小沼純一(音楽・文芸批評家/早稲田大学教授)



言葉に自覚的なアーティストとは、まずアルバム・タイトルで立ち止らせる。坂本龍一もそうだ。これまでのアルバム、2000年代になっての『CHASM』でも『Insen』でも、タイトルそのものが、これは何か?と問い掛け、音楽を聴くことでその言葉に戻り、と螺旋の運動をつづけ、聴き手と作品との関係を織りあげてゆく。
 『out of noise』というアルバムの音が手元に届けられたのは、松の内もあけんとする頃だった。坂本さんからe-mailで、出来ました、と送られてきた。MP3を故意に避けてきた身であるが、これでは聴かないわけにはいかない。結局、1月31日のインタヴューまでに何度も聴き、聞きかえすことになった。そして、この日までに自らのうちで考えていたのは、この12曲がじっくり、そして何回も聴くことを要請する、ということ。ただ1度は2度聴いただけではわからない、わかったふりもできないということ。くりかえして聴くなかで、雑念、それは音響・音楽的なものにかぎらない、もっと広い意味でのnoise、余計なものがふるいおとされてゆく、そのout of noiseの状態なのではないか、と考えるようになっていた。
 はじめから聴いてゆき、12曲目までいくと、もう1度聴かないと、と思う。しかも、最後の《composition 0919》は「終わり」「しめくくり」として聴き手にははたらきかけない。



 「聴き手のことは考えていないんです。自分がどういう音を聴きたいかに徹している。曲順もそうで、もっと聴きやすい順番もあったかもしれないけど、こういうふうに、自分の聴きたい順になった。終わりの曲ではループではじめにつづく、というふうに」



 『CHASM』から、alva notoやChristian Fenneszとのアルバムを除いて、5年ぶりのソロ・アルバム。はたして「ソロ」・アルバムをつくるときには1枚1枚、どんなふうに考えていたのだろうか。もちろん、そのときどきの時代や考え方、状況の違いはあるだろうけれども。



 「1作1作結構違いますよね。『千のナイフ』は、自分勝手なというか、ほとんど自分のことしか考えていないかんじ。『B2-unit』だと、陽の世界のYMOに対して陰の世界、プラスに対してマイナスみたいな、対立がエネルギーになっていた。その後、YMOの解散で対立がなくなって、少し陽な風になって、というように、いろんな状況によってかんじが変わります。アメリカのレコード会社と契約したり、ニューヨークに行ったり、割とわかりやすく、リスナーにわかりやすいもの、というプレッシャーはいつも感じていて、自分としてはそのつもりなんだけど全然ポップスになっていないとかね。これはおもしろいけど、ポップスではない、宗教的な体験だ──とか当時のヴァージン・アメリカの社長に言われました。『Beauty』だったかな。でも、ポップスではないだろうなと今は思いますね。だから、自分が努力したつもりでも、つもりじゃなくてもあまり変わらないのかもしれない(笑)と、今は結構達観して、特に今回は何も考えていません。聴きやすさとか、聴き手のためとか、そういうサーヴィスは全く意味がないから、やめようと思って、やめちゃいました」



 ソロ、というのか、坂本龍一名義のアルバムをつくる。でも、alva notoやChristian Fenneszとのコラボレーション作品があることは、「ソロ」とどうつながり、違ってくるのか。



 「この4-5年のカールステン・ニコライ(alva noto)、クリスチャン(Christian Fennesz)、クリストファー・ウィリッツらと一緒にやっているのと近い感覚ではあります。共作名義のものはやはりコラボレーションなんですけど、今回はあまり「つくる」って動詞が、「作曲する」って言葉がしっくりこないんです。むしろ、こう、「おく」って感じ、音を「おいていく」っていうかんじ。で、そのなかに自分が弾いた音もあるけど、自分がフィールド・レコーディングした音とか、誰かのギターの音とか、そういうのをおいていってる感じ、かな。つくる、つくったって感じがしないですね、あんまり。つくるっていうとやはり、一種構築的な、タテ・ヨコ、それからフォーム、いろんなことがでてきちゃいますから、あんまりそういうことは……まあ、そういうものからかなり自由になろうというかんじで、キャンヴァスに音のオブジェをおいていって、キャンヴァスをながめて、外したりとかしてるかんじなんですね。だから…あえて…ほぼ作り方も即興的だし、素材も即興のように」



 「作曲」という言葉に対して、どことなく距離を感じる音楽のつくり方。坂本龍一とは、しかし、「作曲」に対してことのほか意識的な音楽家だった。



「素材がいっぱいあるから、そうすると誰が作り手なのかということが、ちょっと薄まってくる。コラボレーションしかりです。そういう意味では、つながりが、alva noto、Fennneszとやっていることとつながりがあります」



(後編に続く)