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不世出の天才ヴァイオリニスト、ジネット・ヌヴー生誕100年記念特集

ジネット・ヌヴー

“不世出の天才ヴァイオリニスト”ジネット・ヌヴー。2019年は彼女が1919年8月11日パリで生まれてから100年、1949年10月28日、アメリカ演奏旅行のためパリから飛び立った飛行機がポルトガル領アゾレス諸島のサン・ミゲル島に墜落、30歳の若さで亡くなってから70年にあたります。ここでは残された録音に触れながら、彼女の人生を振り返ります。

「内面性、熱情、力強さ、抒情性、音楽的知性のすべてを備えたパリジェンヌ。見る人の目を魅了する白衣の尼僧にも似た舞台姿」(ワールド・テレグラム紙、ロバート・バーガー/加藤真二訳)[1]

1947年11月13日と14日の両日、シャルル・ミュンシュ指揮ニューヨーク・フィルとブラームスのヴァイオリン協奏曲を演奏し、このような讃辞を得たヌヴーは、毎シーズン、アメリカに招かれるようになっていました。1949年10月の訪米は1月に続いてのもので、兄でイヴ・ナット門下のピアニスト、ジャン・ヌヴーとともにセントルイス、サンフランシスコ、ロサンゼルス、シカゴを含む21の都市で演奏し、11月30日のカーネギーホールでツアーを終える予定でした[2]。翌1950年にはスイスの名ピアニスト、エトヴィン・フィッシャーとのブラームスのヴァイオリン・ソナタの録音や、ベートーヴェンとチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲の録音[3]、ヨーロッパ・ツアー、同年夏には南アフリカ・ツアーが予定されていました[4]。このように、ヌヴーは生前より世界の音楽愛好家から熱狂的な人気を獲得し、突然の死により伝説的な存在となりました。フランスの衝撃は大きく、政府は勲三等レジオンドヌール勲章を彼女に授与し、パリ市議会はパリ18区の通りに彼女の名をつけることを議決しました。[2]。


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ブラームス:ヴァイオリン協奏曲~第3楽章
1946年8月、ロンドン、アビーロードスタジオでの録音
オリジナル金属原盤からヴィニール・プレスしたレコードより復刻

音楽家の家系に生まれたヌヴーは、5歳のときに母親にヴァイオリンのてほどきを受け、その後、音楽大学のリン・タリュエル(Line Talluel)夫人に学びました。夫人によると「そんなにむずかしくないところだし、もう上手に弾けているから、練習しなくてもいいわよ」と言っても、幼いジネットは「もっと練習すればもっときれいに弾けるわ」と練習を続けたと、彼女の母親は述懐しています[5]。そして、7歳のときピエルネ指揮コロンヌ管弦楽団と共演し、パリのガヴォー音楽堂でブルッフのヴァイオリン協奏曲第1番を弾いてデビューする、という天才ぶりを示しました[2]。また、彼女が10歳の頃、当時48歳の巨匠ジョルジュ・エネスコのレッスンを受けていたとき、エネスコが「私は、そのパッセージをそうは弾かないよ」と引き留めたところ、「わたしはこの曲を。自分の理解した通りに弾くの。わたしにつかめないようなやり方では弾かないわ」と返したジネット。さすがのエネスコもにっこり笑って先を続けるよう促すだけだったそうです[6]。まさに自分の意思を貫き、同時に周囲の大人を納得させてしまう幼少期のジネットの姿を彷彿とさせるエピソードだと思います。

その後、11歳でパリ音楽院のジュール・ブーシュリのクラスに入学し、たった8カ月で一等賞を取り、卒業。こんな短期間で卒業したのは半世紀前のヴァイオリニスト、作曲家のヴィエニャフスキ以来でした[6]。1931年に出場したウィーン国際コンクールでは第4位に留まったものの、審査員のカール・フレッシュを感動させ、4年に渡って無償で指導を受けることとなりました。そして1935年、16歳のときワルシャワで開催されたヴィエニャフスキ国際ヴァイオリン・コンクールで、30歳以下の180名の応募者を抑えての優勝。第2位は当時27歳のダヴィド・オイストラフでした。このコンクール参加の直前、彼女はパリの楽器商マルセル・ヴァトロ(1884~1970)で1730年製のオモボノ・ストラディヴァリウス(有名なアントニオの息子)を購入しています。このヴァイオリンで彼女は亡くなるまで評判を築いてゆくのでした。

1936年にはハンブルクでヨッフムの指揮によりブラームスのヴァイオリン協奏曲を弾き、大成功を収めました[7]。1937年にはソヴィエト、アメリカにもデビューしました。ところが、1937年3月12日のニューヨーク、タウン・ホールでのリサイタルの批評は芳しくありませんでした。彼女は小品で類い希なる雄弁さを発揮したものの、バッハのシャコンヌでは「力強さと幅広さ」に欠けると評されました。当時のヌヴーのフレッシュ流の弓の制御が、ハイフェッツやミルシテインなどアウアー門下全盛だったアメリカでは物足りなく受け止められた、とする説もあります。冒頭で触れたように、彼女は戦後、ニューヨークでこの批評へのリベンジを果たすことになります。一方、ヨーロッパでの人気は高まるばかりで1938年4月13日、ベルリンで初録音を行いました。曲目はクライスラー、スーク、ショパン、グルック、パラディスの小品の録音でした[2]。翌年1939年3月には、同じくベルリンで、この年75歳を迎えたR.シュトラウスのヴァイオリン・ソナタを録音しました[2]。これらの彼女の戦前の録音のうち、ショパンの夜想曲第20番とスークのアパッショナータ(ビクター JD1342)の1枚だけは戦前の日本でも発売され、一部で評判となりました


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パラディス:シシリエンヌ
1938年4月13日、ベルリンでの録音
1980年に英EMIがトランスファーしたテープより復刻

1940年6月、パリはナチス・ドイツに占領され、ヌヴーの国際的なキャリアは一時停滞することとなります。この間、ヌヴーはドイツからの招聘をすべて断り、パリから離れず、僅かに開かれるコンサートのほかは、楽曲の研究と毎日5時間の練習に打ち込みました。兄ジャンとのデュオ・チームができたのも1942年のことです[2]。占領下のパリで、彼女は1941年5月4日にベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲をパレー指揮で初めて演奏しました。また、1943年6月21日にパリのサル・ガヴォーでプーランクのヴァイオリン・ソナタを作曲者のピアノとともに初演したことは特筆されます[8](残念ながら彼女の同曲録音は残されませんでした)。

パリ解放後、ヌヴーは世界的な演奏活動を再開します。イギリスに渡って1945年3月12日にはロンドンのウィグモア・ホールでリサイタルを開き[2]、3月24日にはロイヤル・アルバート・ホールでベートーヴェンの協奏曲を演奏、絶賛を博しました[6]。同年11月21日、再びイギリスを訪れたヌヴーは英HMVへの初録音、シベリウスのヴァイオリン協奏曲をたった1日で録り終えます。プロデューサーのウォルター・レッグによると録音は午後2時に始まり、1時間半の休憩を挟んで午後10時に終了。ヌヴーは休憩時間もヴァイオリンをさらい、午後8時頃にはヴァイオリンをはさむ顎と首から出血してきましたが、録音修了後には当時勉強中だったウォルトンの協奏曲を全曲を一気に弾いてみせたそうです。彼女は細身ながら長身で力強く、サイクリングや水泳を愛するヴァイタリティに溢れた女性だったと伝えられますが、そのことを裏付けるエピソードと言えるでしょう[3]。


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シベリウス:ヴァイオリン協奏曲~第3楽章
1945年11月、ロンドン、アビーロードスタジオでの録音
1969年に英EMIがトランスファーしたテープより復刻

シベリウスの録音から事故死までのヌヴーの世界を股にかけた活躍ぶり、すさまじい強行日程―後から見れば「生き急ぎ」―にはまったく驚かされます。1946年には二度イギリスを訪れツアーと録音(ブラームスのヴァイオリン協奏曲の商業録音も含まれる)を行い、1947年には南北アメリカを、1948年にはイギリス、オーストラリア、アメリカを演奏旅行。とくに1948年10月から翌年1月のアメリカでは20を超える都市で計60回ものコンサートを開く強行軍でした。


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ラヴェル:ツィガーヌ
1946年3&8月、ロンドン、アビーロードスタジオでの録音
フランス・プレスのSPレコードより復刻

この間、彼女が残した商業録音は現在のCDに直して僅かに4枚ほど(片面約4分収録のSPレコード53面分)、世界各地の放送局に残されたライヴ録音も3~4枚分しかありません。その中で複数の録音のある曲目は彼女の得意レパートリーと言えますが、ブラームスのヴァイオリン協奏曲、ショーソンの詩曲、ラヴェルのツィガーヌ、ショパンの夜想曲第20番、スークの小品2曲となっています。中でもブラームスのヴァイオリン協奏曲は4種もの録音が残り、いかに彼女がこの作品を得意とし、かつ聴衆から望まれていたかがわかります。また、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲も、キャリアの転換点でしばしば演奏した作品ですが、 彼女の死の1カ月前、1949年9月25日に磁気テープ録音による当時としては良い音のライヴが残されたのは、ファンにとって非常に有難いことでした。彼女の生年が、20世紀後半に大活躍したヘンリク・シェリング(1918~88)とアイザック・スターン(1920~2001)の間にあたることを考えるにつけ、失ったものの大きさを思わずにはいられません。
(タワーレコード 商品本部 板倉重雄)

ヌヴーのヴァイオリン後日談
5度目の訪米を控えた1949年早春、彼女はスペア楽器の必要性を感じ、楽器商マルセル・ヴァトロでJ・B・グァダニーニを購入しました。グァダニーニはオモボノ・ストラディヴァリウスとともにワニ皮カバーが付いている頑丈な二重ケースに収められました。

彼女の楽器についての伝説に「ストラディヴァリウスは破壊されずに生き残った」というのがあります。海外盤の初期LPにある記述を訳したものですが、彼女が持っていたのは、前述した通り有名な「アントニオ・ストラディヴァリウス」ではなく、その息子の「オモボノ・ストラディヴァリウス」でした。また、彼女の遺品を確認した楽器商ヴァトロの2代目、エティエンヌ・ヴァトロ(1925~2013)の証言によれば、事故後、エール・フランスの調査官が発見したのは二重ケースと2本の弓だけでした。エティエンヌは事故から33年後の1982年6月30日、フランスのTV局アンテンヌ2の番組で以下のように証言しています。

「調査官は山小屋からヴァイオリンを擦る音が聞えてきたのでそこへ入ると、男が金と鼈甲で装飾されたHill & sonsの弓でヴァイオリンを弾いていたそうです。『この弓はあなたのものか』と訊くと、『いや、見つけたものだ』と答えました。調査官は二重ケースと2本の弓を回収しました。私が調査官に『彼が持っていたヴァイオリンはどうですか』と訊くと、『すごく古そうに見えたので!(持って帰らなかった)』と答えました。ヌヴーのヴァイオリンが生き残ったのかどうかは、誰にも判らなくなっています」。

この番組にはピアニストのベルナール・リンガイセン(1934~)も招かれていました。彼が新たな証言をします。「事故のとき、アゾレス諸島に行ったリスボンのフランス領事が、ヴァイオリンのスクロール(渦巻き部分)を漁師が持っているのを見つけました。私がブラジルを演奏旅行しているとき、この領事はがスクロールを見せてくれました。私はヌヴーのことをよく知っていましたから、たいへん感動しました。彼は言いました。『これをあなたに差し上げます』」。そして、そのスクロールをその場でエティエンヌに見せました。エティエンヌは一目で「これはヌヴーのグァダニーニのスクロールです!父が、アメリカに経つ前の彼女に売ったヴァイオリンです」と言って涙ぐむのでした。忽然と現れたグァダニーニのスクロールは、ヌヴーの伝説に新たな一章を書き加えたのでした。
(タワーレコード 商品本部 板倉重雄)


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ベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲~第3楽章
1949年9月25日 バーデン・バーデンでのライヴ録音
SWR放送局のオリジナルマスターより復刻

参考文献
[1]コロムビア XL5090 [LP] 解説書
[2]英Warner Classics 9029549048 [CD] 解説書
[3]英Gramophone誌第27巻12号
[4]仏Tahra TAH355/357[CD]解説書
[5]ハラルド・エッゲブレヒト/シュヴァルツァー節子訳「ヴァイオリンの巨匠たち」アルファベータ
[6]マーガレット・キャンベル/岡部宏之訳「名ヴァイオリニストたち」東京創元社
[7]独Acanta 233585[CD]解説書
[8]ピティナ・ピアノ曲事典(https://enc.piano.or.jp/musics/18222)

ジネット・ヌヴー おすすめディスク7点

(1)ワーナー録音全集(4枚組)

1938~1948年のセッション録音。ヌヴーの商業録音(すべてSPレコード)は、すべてワーナークラシックスが原盤を所有しています。今年発売されたこのBOXでは、SPレコードの金属原盤が残っているものは、それをヴィニール・プレスしたものから音録りし、残っていないものは、1969年と1980年に磁気テープにトランスファーしたものから音録りしています。また、テープの状態の悪いものは、状態の良いSPレコードから音録りしています。つまり、現在望みうる最高の音の状態でヌヴーの商業録音を味わうことのできるBOXです。

 

(2)ブラームス:ヴァイオリン協奏曲(1949年ライヴ)

1949年6月10日 、ハーグでのライヴ。ヌヴーはブラームスのヴァイオリン協奏曲を看板楽曲にしていて、僅かCD7枚分しかない彼女の録音遺産の中で、4種の録音を残しました。これはその最後の録音記録であり、「弾くたびに良くなってゆきたい」と願っていた彼女の同曲べスト演奏となりました。若き日のドラティの気魄のこもった、かつ冷静な視座も併せ持った指揮も見事です。放送用のアセテート盤からの復刻で、若干のスクラッチ・ノイズが伴いますが、音自体は極めて鮮明です。

 

(3)ベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲(1949年ライヴ)

1949年9月25日、バーデン・バーデン、クアハウスでのライヴ。ヌヴーはベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲をキャリアの折々に弾いてきましたが、残念ながら商業録音を残すことなく亡くなりました。これは彼女の死後、約30年を経過してから世に出たライヴ録音です。南西ドイツ放送(SWR)が磁気テープ録音したもので、音質は当時としては最高、演奏も巨匠ロスバウトのち密な指揮に乗って、彼女がベートーヴェンの音楽を気品高く、スケール大きく、勢いよく演じています。

 

(4)ブラームス:ヴァイオリン・ソナタ第3番(1949年ライヴ)

1949年9月21日のライヴ録音。この曲は、1950年にスイスの巨匠エトヴィン・フィッシャーと録音する予定だったものの、彼女の死によりキャンセルとなり、数年後、ヴァイオリニストをジョコンダ・デ・ヴィートに代えて録音されたという逸話が残っています。デ・ヴィートはヌヴーとは異なる芸風で名盤を残しましたが、彼女の没後50年の1999年になって、兄ジャン・ヌヴーとの同曲ライヴが発掘され、ファンを狂喜させました。鋭い感覚と技巧、そして豊かな想像力を感じさせる迫真の名演です。カップリングのブラームスのヴァイオリン協奏曲(1948年ハンブルク・ライヴ)を含めて、磁気テープ録音で音質が良いのも嬉しいところです。

 

(5)ショーソン:詩曲、ラヴェル:ツィガーヌ(1949年ライヴ)

1949年1月2日、ニューヨークのライヴ。ヌヴーの商業録音とライヴ録音を全て収めた7枚組で、上述したCDとかなり音源がかぶりますが、他では聴くことができないライヴ音源が3曲入っているので見逃すことができません。とくにご紹介する2曲は、巨匠ミュンシュ指揮ニューヨーク・フィルのカラフルかつエネルギッシュな伴奏に乗って、ヌヴーのイマジネーションとテクニックが冴えわたっていて、素晴らしいの一言!ニューヨークの聴衆も沸きに沸いています。

 

(6)ブラームス&シベリウス:ヴァイオリン協奏曲(1945&46年スタジオ録音)

1946年8月、及び1945年11月のスタジオ録音。上記(1) と(5)のBOXにも収録されている音源ですが、2トラック、38センチ、オープンリール・テープからの復刻で音質が聴きやすいことと、解説書にジネットの母ロンズ=ヌヴーによる手記が掲載されているのが貴重です。母はジネットとジャン、2人の子供の思い出をのちに1冊の本にまとめますが(原書はフランス語、英訳あり、邦訳なし)、この手記はそれよりも前に書かれたものです。最も身近な存在であった母の描写は、ジネットの人となりをまことに見事に浮き彫りにしています。

 

(7)ショーソン、ドビュッシー、ラヴェル【LPレコード】

上記(1)の音源を用い、1955年にフランスで発売されたLPレコード(FJLP5037)をジャケット・デザインごと再現したもの。ショーソンの「詩曲」は1946年8月16~18日の録音、ドビュッシーのヴァイオリン・ソナタは1948年の3月18日の録音ですが、ヌヴーの生前には発売されず、1955年に初めて世に出ました。ラヴェルの「ツィガーヌ」は1946年3月26日(前半)と1946年8月13日(後半)の録音で、彼女の生前にSPレコードで発売され、1955年に初復刻されました。3曲ともフランス近代のヴァイオリン作品で、師匠たちから受け継がれたフランスの伝統的な解釈に彼女の卓越したセンスと技巧が加わり、極めつけと言える名演が展開されています。ジャケット・デザインは、「ノール・エクスプレス」のポスターや「イヴサンローラン」のロゴで名高いアドルフ・ムーロン・カッサンドル(1901~68)が手掛けたものです。

カテゴリ : Classical

掲載: 2019年08月09日 00:00

更新: 2019年10月28日 17:00