『レオニード・コーガン~アンコール』がLPレコードで初のステレオ・リリース!
『レオニード・コーガン~アンコール』がLPレコードで初のステレオ・リリース!
ヴァイオリン・ファン、LPファンに朗報!旧ソ連の名ヴァイオリニスト、レオニード・コーガン(1924~1982)が1957~58年に米ソ文化協定の第一陣としてアメリカへデビューした際に、米RCAへセッション録音した小品集がLPレコードで復活します。しかも、LP時代はモノラルでのみ発売されていたもので(米RCA LM-2250など)、2015年4月に日本のソニー・ミュージックからSICC-1818として世界初CD化された際に、初めてステレオ録音として登場したものでした。つまり、LPレコードでは初のステレオ・リリースとなります!
今回のジャケットには初出モノラル盤のアートワークに「Living Stereo」の意匠が加えられ、LP時代には幻だったLSC-2250の品番が付いた形でリリースされます。
(タワーレコード 商品本部 板倉重雄)
【収録曲目】
SIDE 1
1. ナルディーニ:アダージョ・カンタービレ_4:01
2. ショスタコーヴィチ(ツィガーノフ編):4つの前奏曲 Op.34_4:40
3. メンデルスゾーン(クライスラー編):無言歌「5月のそよ風」_2:29
4. クライスラー:ウィーン奇想曲_3:53
5. ハチャトゥリアン:アイシェの踊り(ガイーヌ)_2:57
6. ヴュータン: ロンディーノOp.32-2_4:39
SIDE 2
1. ドビュッシー(ローレンス編):月の光_4:00
2. プロコフィエフ(ハイフェッツ編):仮面劇(ロメオとジュリエット)_2:04
3. ブロッホ:ニーグン_6:35
4. グラズノフ:「ライモンダ」より間奏曲_3:46
5. サラサーテ:バスク奇想曲Op.24_5:33
【演奏】
レオニード・コーガン (ヴァイオリン)
アンドレイ・ミトニク (ピアノ)
【録音】
Recorded: 11(SIDE 1: 1-3, SIDE 2: 1, 3), 12(SIDE 1: 4-6, SIDE 2: 2, 5), 21(SIDE 2: 6).II.1958,アカデミー・オブ・アーツ・アンド・レターズ, ニューヨーク
Producer: Richard Mohr
Recording Engineer: John Crawford
Original LPs: RCA LM-2250 (ステレオ録音だったが初版LPはモノラル盤のみ発売)※
(P)1958 RCA (C)2018 Sony Music Entertainment.
Manufactured by Machang Music & Pictures Co., Ltd. Project Designed & Sleeve Made by KHIOV.
Made in Korea.
レオニード・コーガン
コーガンは旧ソ連時代の1924年11月24日、ウクライナの工業都市、ドニプロペトロウシクのユダヤ系の家系に生まれました。父は写真屋を営むアマチュアのヴァイオリニストで、この父親よりヴァイオリンの手ほどきを受けています。7歳の時より、同地いもに住むヴァイオリン教師に就き、長足の進歩を遂げた彼は1933年、より高度な指導を受けるためにモスクワに移り、音楽院付属中央音楽学校に入学。ロシア・ヴァイオリン界の名伯楽アブラム・イリーチ・ヤンポリスキー(1890-1956)のクラスに入りました。同じクラスには、後に夫人となるエリザベータ・ギレリス(1919-2008、ピアニストのエミール・ギレリスの妹)をはじめ、ボリス・ゴールドシュタイン(1922-1987)、ユリアン・シトコヴェツキー(1925-1958)、などソヴィエト各地から天才少年・少女たちが集まっていました。このような理想的な環境の中で、コーガン少年はすくすくと成長しました。
1941年、16歳のとき、モスクワ音楽院の大ホールでブラームスのヴァイオリン協奏曲を弾いて正式にデビュー。1943年にはモスクワ音楽院に進学、1948年には大学院に進み1951年に修了。その間、1947年にプラハの国際青年コンクールでユリアン・シトコヴェツキー、イーゴリ・ベズロドニー(1930-1997)と優勝を分け合っています。そして1951年にはベルギー、ブリュッセルで開催された第1回エリザベート王妃国際コンクールに優勝。コーガンの名は一躍世界的なものとなりました。
1955年からは、同じウクライナ出身の大ヴァイオリニスト、ダヴィッド・オイストラフ(1908-1974)と同様に、旧ソ連を代表する芸術家として西側での本格的な演奏活動を開始。まずパリとロンドンへデビューした後、翌年にはウィーンで演奏し、1957年には米ソ文化協定の第一陣としてアメリカへデビュー。1958年1月10日にはピエール・モントゥー指揮ボストン交響楽団とブラームスのヴァイオリン協奏曲を演奏し、熱狂した聴衆から18分にも及ぶ喝采を受けました。同年11月には初来日。日ソ国交回復直後とあって、大きな話題を呼び、「オイストラフよりも“すごい”名ヴァイオリニストと日本中をうならせた」(藁科雅美氏)などと高く評されました。コーガンは親日家となり、1978年2月の最後の来日まで、計8度も来日しています。
コーガンのレパートリーはヴィヴァルディから同時代音楽まで、協奏曲やソナタの大曲から技巧的な小品、そして二重奏や三重奏まで極めて幅広いものでした。同時代作品ではハチャトゥリアンをはじめ、多くの旧ソ連の作曲家から作品を捧げられ、演奏、録音を行いました。パガニーニ、ヴィエニャフスキ、サラサーテ、クライスラー、ハイフェッツが作曲・編曲した小品演奏でも抜群のうま味を発揮しました。
コーガンは少年時代から胃の持病をもっていて、50代に入ると体調も悪化していきました。そして、ウィーンでベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を弾いた2日後の1982年12月17日、電車で移動中にモスクワ近郊ムィティシで心臓発作のため急逝。58歳の若さでした。
(タワーレコード 商品本部 板倉重雄)