インタビュー

無頼庵

自分のなかでの満足度が相当上がんないと人前では演んない感じにはなってきましたね。


 曽我部恵一が、いまなおライヴにおいて〈おとなになんかならないで〉と激しく歌い続ける2003年。サニーデイ・サービスの元レーベルメイトであったバブルバスからひとり飛び出した男、堀内章秀は無頼庵を名乗ってデビューした。彼のファースト・ミニ・アルバム『優しく明るく』の帯にはこう記されている。〈大人になりたくなかった君へ 大人になれなかった君へ〉。

「自分もまさしく〈大人になれなかった〉っていう部分もあるし〈大人になりたくなかった〉っつうのもあって。でも世の中を見たときに、その言葉ってほとんどの人を指してるような気にもなるし」。

 思えばバブルバスのラスト・アルバム『Bub Rock』がリリースされたのが98年。サニーデイ・サービスが解散した2000年を経て、初恋の嵐の西山達郎が逝去した2002年に無頼庵を〈本格的にちゃんとやろうと思った〉と言う堀内は、いくつもの苦々しい青春の終わりを経験したあとにそっと『優しく明るく』を届ける。

「〈優しく〉っていってる時点で厳しさもあることをわかってほしいし、〈明るく〉といってる時点で暗さがあるのもわかってほしいっていうのを含みつつ」。

 初恋の嵐の隈倉弘至やフリーボの石垣窓、コモンビルの玉川裕高、村中靖愛、椿屋四重奏の小寺良太などとのバンド録音である本作には、彼とそんな参加陣との長くて深くて運命的な関係性もしっかりと録音されており、極言すればそれが無頼庵の音楽性のすべてである。

「ジェフ・バックリーだったりニール・ヤングだったり、海外ではそういうのって普通じゃないですか。その感じに憧れてやったんじゃなくて、それが自然だった。無頼庵をやろうって思ったとき、周りに好きなミュージシャンがすごくいて、そういう人らといっしょにやりたいっていうのもあったし、そういう人らに恩返ししたいっていうのもある」。

 キャリアを通じてもっともストロングでロマンティックな歌と声(彼は天然の倍音ヴォイスを持つ不世出のシンガーでもある)で、ロッキンなバンド・アンサンブルを貫通する堀内は、たとえばジェイムズ・テイラーやブライアン・ウィルソン、もしくは彼自身も敬愛する玉置浩二のように、音楽に取り憑かれた者特有の、マッドな佇まいを放つ。その歌は純粋なままで尖っている。

「バブルバスのときはもうちょい職業的に曲を作れてたんですけど、いまは根詰めてソリッドにしていかないと気持ち悪い。以前と比べると曲作りのペースは下がってますけど、自分のなかでの満足度が相当上がんないと人前では演んない感じにはなってきましたね」。

▼無頼庵の関連盤を紹介。

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掲載: 2003年10月30日 11:00

更新: 2003年10月30日 13:47

ソース: 『bounce』 248号(2003/10/25)

文/内田 暁男