インタビュー

Sanseverino


「最近はフランスの白人たちも盛んにマヌーシュ・スウィングを演奏するけど、そのほとんどは形だけでハートがない。例外的にいいと思うのは、サンセヴェリーノぐらいだね」。

 僕にそう語ったのは、昨年、来日公演を行ったマヌーシュ・スウィングの重鎮ギタリスト/ヴァイオリニスト、ドラド・シュミットだ。彼はこう続けた。

「マヌーシュ・スウィングの本質は即興の精神だ。率直で自発的で、頭で考えたものじゃなく心からくるものだ。それこそが創造だ。演じながら常に新しいものを作ろうとする精神だね。今日、僕が悲しかったら、音楽もそういうものになる。サンセヴェリーノはジプシーじゃないけど、ジプシー・コミュニティーと関わりながら育ったから、とてもいい演奏をする。リズムだってちゃんとマヌーシュのニュアンスを醸し出しているしね」。

 もちろんサンセヴェリーノの音楽はストレートなマヌーシュ・スウィングではない。パンク・ロックやシャンソン・フランセーズ、東欧音楽の影響も強く受けているし、またイタリアの古典喜劇的なドタバタ感を随所に潜ませていたりもする。しかし、どこを切っても、本質的にボヘミアンにしか表現できない哀感や飄逸さが通奏低音のように太く流れており、それが彼の音楽独自の魅力をグッと高めていると思うのだ。

「ボヘミアン的だって? いい指摘だね。実際、少年時代にブルガリアで出会ったジプシー音楽からは多大な影響を受けたからね」。

 本国フランスでは昨年に発表された2枚目のアルバム『Les Senegalaises』の日本盤リリース、そして5月の来日公演を前に行ったメール・インタヴューで、そう嬉しそうに答えるサンセヴェリーノ。昨年、日本盤もリリースされた2001年のデビュー・アルバム『Le Tango Des Gens』は、フランスでは20万枚を超える大ヒットとなり、同年の〈アカデミー・シャルル・クロ大賞〉も獲得。まさにいま、飛ぶ鳥を落とす勢いのシンガー・ソングライターである。

 イタリア移民の子として62年にパリで生まれ、3歳から16歳までは父親の転勤で海外(ブルガリア、ニュージーランド、ニューヨーク、ユーゴスラヴィア、メキシコなど)を転々としたサンセヴェリーノは、20歳過ぎから役者として活動し、その後ミュージシャンに転向。レ・ネグレス・ヴェルトに代表される80年代末期以降のフレンチ・オルタナティヴ・ロック・シーンの中で、東欧音楽とスウィング・ジャズを軸にしたミクスチャー・ミュージックのバンド、ヴォルール・ド・プールで成功し、90年代後半からソロ活動に入った。

「イタリア出身の僕の親父はイヴ・モンタンやボリス・ヴィアン、ジョルジュ・ブラッサンスなどの熱烈なファンだったから、いつもそういう音楽が家の中に流れていた。それら以外にも、僕はシャルル・トレネとかが大好きだった。ギタリストとしてもっとも影響を受けたのは、もちろんジャンゴ・ラインハルトさ。でもいちばん最初は、ブルーグラスをやろうと思っていたんだよ」。

 長い海外暮らし、家庭での音楽環境、演劇活動(〈コメディア・デラルテ〉で道化師役もやっていた)といった人生経験のすべてが、現在の彼の表現の血肉となっているのは、作品を聴けばわかる。

「自分の音楽にキャッチフレーズをつけるとすると? 〈スウィング・オブ・ライフ〉ってとこかな」。

 軽妙でスピーディーなサウンド、そして諧謔精神いっぱいのアナーキックな歌詞。聴く者の人生をスウィングさせてしまう、道化師のようなボヘミアンである。

PROFILE

サンセヴェリーノ
62年、パリ生まれ。幼少期~16歳まで父親の仕事の都合でブルガリア、ニュージーランド、アメリカ、ユーゴスラヴィア、メキシコと移り住む。高校卒業後にホテルマン養成学校に通うものの、役者をめざし劇団に入団。古典即興劇やサーカスに出演する一方で、ギターやバンジョーも習得する。30代から本格的に音楽の世界に身を投じ、マリ・ジャルーを経てヴォルール・ド・プールというオルタナ・バンドに加入。バンド解散後はソロ活動を開始し、2001年にアルバム『Le Tango Des Gens』をリリースするや、すぐさまフランス国内外で大ヒットを記録した。このたび、セカンド・アルバム『Les Senegalaises』(Sony France/オーマガトキ)の日本盤がリリースされたばかり。

カテゴリ : インタビューファイル

掲載: 2005年05月19日 11:00

更新: 2005年05月19日 17:19

ソース: 『bounce』 264号(2005/4/25)

文/松山 晋也