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インタビュー

TINIE TEMPAH 『Disc-Overy』

 

TINIE TEMPAH_特集カバー

 

とにかくハプニングな場所へ

 

全英チャートを眺めていたら、日本に伝えられる〈UK音楽シーン〉とはまるで異なる様子になっていた。そう気付いたのは2008年頃だろうか。ディジー・ラスカルが“Dance Wiv Me”で初の全英No.1を獲ったその年はUKにR&Bチャートが新設された年であり、そこでワイリーの“Wearing My Rolex”やアイロニックの“Stay With Me”といったヒットが脚光を浴びた年でもあった。つまり、地下カルチャーに不案内なリスナーの耳にも容易に届くほど、UK音楽界の超コマーシャルな中枢に自国産のMCたちが進出してきたのだ。

そうした動きの最先端にいるのが、ワイリーの率いるヴェテラン集団のロール・ディープであり、09年にブレイクしたチップマンクやティンチー・ストライダーであり、ここで紹介するタイニー・テンパーである。それまでは国産のロック・バンドとUSアーバンの大物が覇を競っていたUKのポップ市場だったが、ようやくその土俵に本国のラッパーたちが復権してきたというわけだ。

で、〈復権〉というからには〈それ以前〉がある。90年代末~00年代初頭にブームとなった2ステップがコマーシャルな支持を獲得していくなか、その流れを汲むアンダーグラウンドなMC集団たちがよりヘヴィーなサウンドとプリミティヴなラップを引っ提げて、地上へと侵攻を始めたのだ。なかでもイースト・ロンドンから現れたソー・ソリッド・クルーの“21 Seconds”(2001年)は全英1位を強奪し、グライム前夜のMCガラージは、一気にメインストリーム化するかと思われた。

TINIE TEMPAH

が、そのソー・ソリッドが暴力事件や方向転換を受けて失速すると、MCたちの動きは地下へ潜ることになる。文字数に限りがあるので以降の流れは2001~03年のbounce誌などで各自調査して頂きたいが……先述のロール・ディープやディジー、あるいはストリーツやリーサル・ビズル(モア・ファイア・クルー)、ケイノ(ナスティ・クルー)、レディ・ソヴァリン、スウェイらによって、その熱の一部が地上を焦がすことは何度もあったにせよ、ガラージ~グライムに根差したMCたちの熱気は地下で脈々と息づくにとどまっていた。

……という長い前置きは、現在22歳のタイニー・テンパーがグライム~ヒップホップに深く身を沈めてきた過程とシンクロしている。本名をパトリック・オコグォという彼はナイジェリア系の中産階級の家庭に生まれ、南ロンドンのブラムステッドで教育熱心な両親に育てられたという。が、12歳の時にソー・ソリッド・クルーの“21 Seconds”を耳にし、地元で彼らのPV撮影に出くわしたことで、「学校も勉強も好きだった」という優等生の生活は大きく一変した。

「PV撮影してるソー・ソリッドを見た時、俺はあの場所に立つために生まれたと確信したよ。運命を感じたんだ」。

それから数年の間にRinse FMなどの海賊ラジオを聴き漁り、ディジー・ラスカルらの楽曲に夢中になったパトリック少年は、14歳になると家を抜け出してワイリーらのパーティーに出入りしはじめたというから、若さは素晴らしい。そして、とにかくMCになりたいという中産階級の少年のガッツとスキルは、アンダーグラウンドの要人たちを少しずつ振り向かせていくことになる。

「俺は南ロンドン出身だから苦労したんだ。当時注目されてたMCはみんな東ロンドン出身で結束が強かったからね。でも、みんな信じることを忘れずに全力を注げば、弁護士、医者、サッカー選手、ジャーナリスト……何にでもなれると思うんだ。俺だって東ロンドンへ忍び込むために近くの学校に通い、こうして夢を叶えたんだからね。とにかく電車に乗って、ハプニングな場所へ出かける――当時15、16の俺には金なんてなかったし、そのやり方しかなかった。これが俺のルーツさ」。

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カテゴリ : .com FLASH!

掲載: 2011年01月19日 18:00

構成・文/出嶌孝次