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第55回 ─ 音楽の真理を追求し、輝きつづけるベル&セバスチャン

連載
久保憲司のロック千夜一夜
公開
2006/02/09   15:00
更新
2006/02/09   19:43
テキスト
文/久保 憲司

『NME』『MELODY MARKER』『Rockin' on』『CROSSBEAT』など、国内外問わず数多くの音楽誌でロック・フォトグラファーとして活躍、さらにロック・ジャーナリストとしての顔も持つ〈現場の人〉久保憲司氏が、ロック名盤を自身の体験と共に振り返る隔週コラム。今回は、3年ぶりのアルバムをリリースしたベル・アンド・セバスチャンについて。

Belle And Sebastian『The Life Pursuit』

  1曲目“Act Of The Apostle part 1”の、60年代のリズム・マシーンっぽいドラム・サウンドを聴いた瞬間にやられてしまった。ベルセバのCDは、いつも最初の出音でやられます。こんなことを書くとベルセバ・ファンに怒られるかもしれないけど、ベルセバの音の気持ちよさってセックスの気持ちよさに似ているなとぼくは思うのです。キモー! はい、すみません。肌の上を音がサッーと触っていく感じ。あんまり男はそういう風にセックスを感じないのですが、女の人のオルガズムというのはこういう感じなのかなとぼくは思ったりします。マニアックなのに女性のファンが多い理由は、案外そんなところにあるんじゃないかと思ったりして。あんたにベルセバの繊細さはわからない!と怒られそうですが。

  ぼくが思うに、ほとんどのベルセバ・ファンの女の人は彼らの何とも言えない孤独感、疎外感にやられているのではないでしょうか。前作『Dear Catastrophe Waitress(邦題:ヤァ!カタストロフィ・ウェイトレス)』に入っている“アイム・ア・CHCKOO”にその辺の感じがよく出ていると思います。とある有名なロック・スターが日本に来て、知り合った女の子と原宿にデートに行く。周りは変な格好をした人ばっかりでおもしろいと思っていたんだけれど、実はガイジンのぼくが一番変なんだということに気付いたときの孤独感を綴った歌。そんな、〈ロスト・イン・トランスレーション〉な満たされなさがベルセバの全ての歌にあるような気がします。

  トレヴァー・ホーンを起用した『Dear Catastrophe Waitress』を聴いて、これからベルセバはノーザン・ソウルをやっていくんだろうと僕は思いました。ブルースの時代からアメリカの黒人の悲しさ、喜びなどを自分たち労働者階級の代弁として捉え、自分たちの文化にしてきたイギリスの若者たちの最後のムーブメントをやるんだなと。デヴィッド・ボウイやジョイ・ディヴィジョン、アシッド・ハウスにまで受け継がれながらも、もう一つ英国人以外にはわかりにくいノーザン・ソウルの歴史を、ぼくたちにひも解いてくれるんだと思っていたんだけれど、どうやら違ったみたいです。

 新作『The Life Pursuit(邦題:ライフ・パースート)』はティン・パン・アレーというか、アメリカの古き良き時代の商業ライターたちへのオーマジュなのかなという気がする。今作はロスで録音されているという事実を知っているからそう思うんだろうけど。でも、音楽が好きな人がロスに行って、あのそびえ立つキャピタル・レコードのビルを見たら、〈全てのポップスのルーツはここにあるんだ〉と感動してしまう。

  今作のブックレットでスチュアートがファンの人から「ロスでお酒を飲んで車を走らせるなんて、なんてバカなことをしたんですか」と怒られているんだけれど、ロスに行ったら誰だってそんなフィル・スペクターみたいなことをしたくなるんじゃないだろうか。ラジオのスイッチを入れて、オープン・カーでロスの風を受けながら、ここがぼくたちの大好きな音楽の生まれた場所なんだと走り回りたくなる気持ちは理解できる。ジョン・レノンもフィル・スペクターとそんなことをしたらしい。名ドラマーのジム・ケルトナーがぼくにそう言った。フィル・スペクターよりもジョンの方がワイルドだったともジムは言っていた。さすがリヴァプーリアン。ぼくの大好きな話だ。

  結成して10年、フェルトなどのイギリスの音楽、スコットランドのポップス。そんな、もうみんなが忘れ去ろうとしていた音楽を現代のポップスとしてぼくたちに届けてくれたベルセバ。彼らも悩んでいるんだろう。同じ所にいるのはポップスではないから。時代と共に変化し、新しい刺激を与えてくれなければポップスではないから。それをスチュアートは忠実に守っている。いや、それ以上の感動をぼくたちに与えてくれている。たぶんこれからも与えてくれると思う。終わりから2曲目“For The Price Of A Cup Of Tea”でスチュアートはこう歌っている。〈1杯のお茶の値段でコークが1ライン買える。1パイントのミルクの値段で知ってること全部教えてあげる。今の世の中のありさま。さあ、座って、ショウを楽しんで。1杯のお茶の値段で7インチが買える。涙を止めてくれるスロウなブラックのレコード〉。中古レコード屋のエサ箱にたった200円で売られているレコードに救われることは絶対ある。彼らはそれがわかっている。だからベルセバの音楽はこれからもずっと輝いていくんだと思う。

 最後に関係ないけど、この文章を書いていて、ルー・リードが「自分は最後のアメリカの商業ライターの一人だった」と言っていたことを思い出した。狭い部屋にたくさんの若者と一緒に押し込められ、朝から晩まで曲を書かされる。自分もそんな一人だったと。採用されたのは“アヒルのダンス”という曲だけだったそうだ。そういう時代があったのだ。