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第51回――ティーナ・マリーを悼む

連載
IN THE SHADOW OF SOUL
公開
2011/05/25   00:00
更新
2011/05/25   00:00
ソース
bounce 331号 (2011年4月25日発行)
テキスト
文/出嶌孝次

 

ブルーアイド・ソウルではなく〈アイヴォリー・ソウル〉を掲げた唯一無二のスーパー・レディー。肌の色ではなく傑出した個性によって、常にアーバン・リスナーの熱烈な愛を獲得してきた女王の功績を、哀悼の念を込めて振り返っていきましょう

 

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クイーン・オブ・アイヴォリー・ソウル〉とはうまく名付けたものだと思う。ラスカルズやホール&オーツ、シンプリー・レッド、最近でもアデルやダフィーなど〈ブルーアイド・ソウル〉と形容される人は多いが、その言葉が指すものは〈白人がやるソウル〜R&B〉ではなく、基本的に往年のソウル様式を使用したロック/ポップスのことだ。確かに彼らのCDはタワレコでも〈ROCK/POP〉の棚に置いてある。一方、〈SOUL/R&B〉のコーナーでTの棚を見ていけばティーナ・マリーの名前に出くわすだろう。

残念ながら昨年の12月26日に急逝した彼女だが、哀悼の意を示すアーティストたちの多くがR&B/ヒップホップ界の人だったことで、改めてブラック・コミュニティーでの強い支持を認識させられたものだ。なぜ彼女は黒人音楽のリスナーと相思相愛の関係を築き上げ、独自の〈アイヴォリー・ソウル〉を確立できたのだろう。

ティーナ・マリーことメアリー・クリスティン・ブロッカートは、56年にカリフォルニア州サンタモニカで生まれている。ポルトガル系やアイリッシュ、イタリア系、ネイティヴ・アメリカンの血を引くという彼女は、子役タレントの仕事もしていた幼少期から歌や詩が好きで、ピアノやギターの演奏もマスターするなど、芸術的な才能を発揮していたようだ。そして、多感な時期をアフリカン・アメリカンやラティーノの多いエリアで過ごしたことや兄姉の影響もあって、ミラクルズやテンプテーションズといったモータウン黄金期のヒットを浴びながら成長していったのだった。

そんなティーナにきっかけが訪れたのはサンタモニカ大学に在学中の75〜76年。ハル・デイヴィスを経由して彼女のデモテープを聴いたベリー・ゴーディJrに気に入られて、モータウン製作の映画に劇中バンドのメンバーとして出演することになったのだ。結果的に計画は霧散するものの、ベリーはティーナをアーティストとして契約する。ベリーの愛息ケリーの率いるバンド=アポロに加入したり、しばらくは下積み期間が続いたが、そんな最中に彼女と出会ったのが、モータウンの新星としてスターダムを駆け上がっていた先輩のリック・ジェイムズだったのである。

その音楽性に惚れ込んだリックはダイアナ・ロスとの仕事を蹴ってティーナのプロデュースに取り掛かったという。その成果は79年にリリースされたデビュー・シングル“I'm A Sucker For Your Love”(確かにダイアナ向けの曲だ)と、ファースト・アルバムの『Wild And Peaceful』に実を結んだ。続く『Lady T』(80年)では、妻のミニー・リパートンを亡くしたばかりのリチャード・ルドルフをプロデューサーに迎えて洗練性を習得。以降のティーナは自作自演のセルフ・プロデュース路線を突き進み、カール・アンダーソンやオゾンらのプロデュースにも乗り出していくことになる。



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一方、仕事仲間としての付き合いから数年後に恋仲に発展し、一時は婚約もしていたというリック・ジェイムズとの関係は本人いわく〈フェイス・エヴァンスとビギーのよう〉だったそうで、奔放な女性関係を理由にキッパリと訣別。とはいえ、自身のモータウン離脱後も同志として何度もコラボレートするなど、対照的に没落していくリックを我慢強くサポートし続けた(彼の息子の面倒も見ていたというから恐れ入る)。また、当事者たちによって死後に明かされたように、無名時代のレニー・クラヴィッツやフランク・マッコムのような後輩ミュージシャンを物心両面から援助していたというのも、彼女のビッグ・ママ的な懐の深さを物語るエピソードではないだろうか。

エピックに移籍した83年以降はよりエレクトロニックなファンク・サウンドを追求して時代の流れに対応し、唯一のポップ・ヒットともいえる“Lovergirl”(84年)などの名曲を量産。ちょうどその頃に近い音楽性を引っ提げて登場してきたマドンナ(彼女もデビュー時は人種を隠してディスコ層へのアピールを図っていた)のようにクロスオーヴァーできなかったのは、彼女自身のこだわりとポップ・フィールドの求めるものが折り合わなかったのだろう。

エピックを離れた彼女は、91年に出産した愛娘の育児を生活の軸に据え、94年にインディーで出した『Passion Play』(レニー・クラヴィッツが恩返しで参加)を除けば、主にライヴやヒップホップ作品の客演中心の活動にシフトしていく。そして10年後にキャッシュ・マネーから発表した復帰作『La Dona』はブランクを感じさせないモダンなR&B作品として、彼女に新たな黄金時代をもたらした。2009年にはスタックスに移籍するものの、亡くなる前にキャッシュ・マネーと再契約して14枚目のアルバムをほぼ仕上げていたともいう。

よく考えれば、〈アイヴォリー・ソウル〉なる呼称が使われている人を他に知らない。ジョンBやビリー・ローレンス、ロビン・シックといった面々はもはや肌の色とは無関係にアーバン市場で普通に勝負している。その現況がティーナの活躍によってもたらされたものであることは、言うまでもないだろう。

 

▼関連盤を紹介

左から、ミニー・リパートンの74作『Perfect Angel』(Capitol)、カール・アンダーソンの2in1『Absence Without Love/On & On』(Expansion)、レニー・クラヴィッツの89年作『Let Love Rule』(Virgin)

▼ティーナの客演作を一部紹介

左から、スヌープ・ドギー・ドッグの96年作『Tha Doggfather』(Death Row)、イヴの2001年作『Scorpion』(Ruff Ryders/Interscope)、ジョージ・デュークの2008年作『Dukey Treats』(Heads Up)