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湯浅学『音楽が降りてくる』

公開
2012/02/13   18:54
ソース
intoxicate vol.95(2011年12月10日発行)
テキスト
text : 南部真里

音楽は聴きつくせないし、音楽の言葉は書き尽くせない…

「音楽は言葉ではない」という言葉は、音楽は語るに値しないというのではなく、音楽のあの豊かさに較べ、言葉は貧しくならざるを得ないと嘆いてみせる。嘆きながらうっとりする。うっとりすることで考えるのを止めてしまう。そうした聴き手の態度を、岡田暁生は『音楽の聴き方』(中公新書)の中で「信者」と「公衆」にわけて、これは前者のロマン派的な考え方だという。そして近代芸術を成り立たせている公共性を保つには後者が、したがって言葉がどうしても欠かせないと書いた。ところが私たちが普段接する現代のポップ・カルチャーの消費対象は、ベンヤミンはおろかポスト・モダンを遠く離れ、商品からアーカイヴへ、さらにシステムそのものへと、うつってきたのだとすると、それを語る言葉は中身を置き去りにしたまま、語ることそのものを自己目的化する危うさと無縁ではない。考えてもみたまえ、この10年あまりで言葉は情報となりソースとなった。私は編集の仕事をしているが、同業者に「最近の読者はキャプションより長い文章を読まないですよ」と耳打ちされたりした。それさえ数年前の話だ。傾向に同調すれば、退潮は避けられない。だとしたら、余白を大きくとって書き続けなければならない。

14年ぶりの音楽評論集『音楽が降りてくる』で湯浅学が記すのは音楽史の動向ではない。たじろがない音楽の言葉である。洋楽と邦楽、エンケンに勝新、ニール・ヤングとサン・ラー、隣あわせになったメタリカとディラン、一見して古典的ともいえる題材を扱いながら、作者でさえも──作者であるがゆえに──見過ごしてしまう部分を野放図に、しかし丁寧に掬い、音楽と別個の自律した塊を築きあげる業は見事というほかない。最良の音楽が聴き尽くせないのと同じく、音楽の言葉は書き尽くせない。だから当然読み尽くせない。音楽と言葉の終わりなき営みを鼓舞するこの本は、早くも第2弾が用意されているというので、いまから楽しみである。