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サイレンス──鈴木大拙、ジョン・ケージ、そして22世紀へ

連載
OCHANOMA Pre-View
公開
2012/08/17   21:29
ソース
intoxicate vol.99(2012年8月20日発行号)
テキスト
文/柿沼敏江

鈴木大拙、ジョン・ケージ、そして22世紀へ


John Cage and Daisetz Teitaro Suzuki (Japan, 1962)
Photographer: Yasuhiro Yoshioka
Courtesy of the John Cage Trust

インドから東アジアへ

ジョン・ケージ(1912-1982)と東洋思想の関わりは1940年代にニューヨークで出会ったインド の音楽家、ギタ・サラバイとの関わりに始まる。日系アメリカ人の彫刻家イサム・ノグチの紹介によって、二人は知り合いになり、たがいに西洋音楽とインド音 楽を教えあう仲になった。インドの思想をよりよく知るためにケージはアーナンダ・クーマラスワミの著書『シヴァ神の踊り』や『芸術における自然の変容』な どを読んだ。またサラバイはインドに帰国するときに『シュリ・ラーマクリシュナの福音』をプレゼントしてくれた。こうした関わりを通じてインドの思想は ケージの音楽を大きく変え、《ソナタとインターリュード》《四季》《4部の弦楽四重奏曲》といった重要な作品を生むことになった。しかしその後、ケージの 関心は南アジアからさらに東アジアへと移っていき、その音楽は一層大きな変貌を遂げることになる。そのきわめて重要なきっかけとなったのが、仏教学者、鈴 木大拙(1870-1966)のコロンビア大学における講義であり、その教えであった。

石川県金沢市に生まれた鈴木大拙(本名は貞太郎)は、僧侶のような風貌をたたえてはいるものの、僧籍には入ったことのない宗教哲学者である。新制の第4中 学校では西田幾多郎と同級だったが、家計の都合で中学を途中退学し、小学校の英語教師となった。その後上京し、東京専門学校(現在の早稲田大学)、そして 東京帝国大学哲学科に入学。在学中に鎌倉の円覚寺で禅を学び、管長の釋宋演老師から「大拙」という道号を受けた。1897年、中国古典の英訳の助手として 渡米し、仏教書の英訳を行なって注目される。1909年に帰国した後、学習院大学教授に就任し、アメリカ人女性ビアトリス・アースキン・レーンと結婚。 1921年に京都の真宗大谷大学教授となり、英語の仏教雑誌などを創刊し、また海外各地の大学などで東洋思想を講義するようになった。ZENという横文字 を最初に用い、広めたのは大拙であった。

『鈴木大拙全集』の年譜によると、コロンビア大学との関わりは1951年に始まり、まずは「特別講義」と いう形で行なわれた。だが、1952年になると、通常の講義となり、週2回1時間ずつの講義として、2月5日から行なわれるようになった。ケージが出席し たのは、時期的にいって、このときからだと思われる。
ケージがこの講義から受けた影響は、ただ禅や仏教思想に関わるだけでなく、それ以上に大きな広がりをもつものであった。それはただケージの音楽を変

えただけでなく、その後生涯にわたってこの作曲家に影響を与え続けることになった。表現のあり方について 言えば、ケージは初期の作品ではときどき何かを「言う」ことに成功したこともあったが、「インドを発見して」、言うことが変わってきたと言う。そして「中 国と日本を発見」したときに、「何かを言うという行為自体が変わり」、「私は何も言わなくなった。沈黙したんです」と明確に述べている(『小鳥たちのため に』)。「私には言うべきことが何もない、と言いながらそう言っている」とはケージが好んで言うフレーズであるが、それはこの大拙との出会いから生まれて いるとも言えよう。

コロンビア大学での大拙の講義は、1952年から1957年まで、ときにはセミナーという形で、毎年行な われた。ケージはそのうち3年間にわたって出席したと述べているが、どのくらいの頻度で講義を聞いたのかは分かっていない。講義の内容は「華厳哲学」「禅 の哲学と宗教」「菩提達磨とその著述」などであったらしい。シルヴァーマンのケージの伝記によると、大拙は風呂敷に包んだ本を持って教室に入ってきて、 ゆっくりと静かに話した。講義が始まっても10分くらい何も言わないこともあったが、その沈黙で学生たちが苛立つことはなかった。ケージはそのかわりに 「クエイカー教徒の集会でも経験できないような美しい静けさ」を体験したという。

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