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インタビュー

元ちとせ

数曲のシングルで、いまもっとも注目を集めるシンガーとなった元ちとせ。奄美からやってきたカリスマ? それとも……。待ち望まれたファースト・アルバム『ハイヌミカゼ』は、彼女の強烈な個性が発揮された大傑作!!

元ちとせを育てた〈奄美〉という場所


撮影:吉場正和

 奄美大島で生まれ育ち、島唄の素晴らしい唄者(うたしゃ)として奄美ではかねてから知られていた……という前情報なしでも元ちとせの唄声は人々の心に響いているはずだ。つまりはただ純粋に優れた〈唄〉として響いた彼女の唄声。奄美出身ということで〈異端のポップ・ミュージック〉として扱われることを、彼女はその力強い唄声でスルリとかわしてみせたのである。しかし! いったいこんな〈唄〉が東京から出てくるかい? やはり気になる、元ちとせの心に在る奄美の風景とは……?

「……町というか、本当に集落で……30世帯ぐらいですかね。海がわりと近くて、というか海ばっかりで。海と山が両方ある感じですね。高い山っていうのはそんなになくて、険しくもない。木々がいっぱいあって、緑が深くて。小さいころは恐ろしさを知らなかったぶん、どんどんどんどん(入っていって)。でもちゃんと帰ってこれた。誰かが神隠しにあったりというのはありましたけどね。いなくなって捜索願いが出されたりする人もいて……」。

元ちとせはそんな島のとある集落で育った。小学校の同級生だって、たったの4人。そんななか、彼女の音楽人生はこんなところからスタートした。

「風車とかをよく作ってくれる隣の家のおじいちゃんがいたんですね。私はそこのうちによく遊びにいってたんだけど、そこのお兄ちゃんが夕方の5時ぐらいになるとよく縁側で三味線を弾いてたんです。そこで、私も(三味線を)触らせてもらったりしてた。それでお母さんが三味線習いにいく?って言ってくれて。でも、三味線にすごく興味があったというよりは、週に一回、町に出れるやって思って」。

「三味線の音はずっとあたりまえに流れていたもの」だったがゆえに、突然三味線の音にとりつかれて……ということもなく、ごく自然に彼女は三味線を弾きはじめる。彼女の生活の延長として三味線はあった。しかし、島唄との出会いは元ちとせにとっても大きなものだった。

「おじぃやおばぁが島唄を歌うのを見ていて、純粋にかっこいいと思って。自分もどうにか(奄美の島唄独特の唄法である〈コブシ〉を)使えるようになってみたいと思った。とりあえず、毎日、島唄を歌うことが楽しくて、海に行っては歌ったりしてました」。

彼女にとっての〈かっこいい人たち〉とはTVの向こうにいたのではなく、近くの畑にいた。そんな身近な人々から彼女は音楽とは違う〈なにか〉を教えられた。いつだって生活のなかから生まれた唄は力強く、誰の心にも響く。ところで、島唄の魅力って……? もしかしたらひどく抽象的な発言かもしれないけど、一字一句そのままでお伝えします。

「とってもよくわかるからだと思うんですね、その言葉が。それは作ったものがわかるんじゃなくて、生きてきた〈命〉がわかってくるから。そのなかでたぶん、譜に書いた歌い方じゃなくて、人がそう歌うから真似できるものでもなく、やっぱりその〈命〉をとても大切に思うことが増えていく一方だから、歌うんだと思いますね。本当に人間ひとりを育ててくれると思うんです、島唄は 」。

いまも元ちとせは〈命〉を歌う。その〈命〉なるものがなんなのかはっきりとはわからないけど……きっとそれは〈ソウル〉ってことだ。そして彼女はそれを奄美のおじぃやおばぁから学び、海や山から学んだ。いや、学んだというより、奄美で過ごすうちにきっと彼女の心のなかに〈ソウルの花〉が咲いたのだ。まさにレディー・ソウル。

「私は奄美に帰りたい、というより帰るんだろうなって思ってます。いまから東京の魅力を知ったりすれば東京に残りたいという気持ちも出てくるんでしょうけど、いまの段階では奄美に帰るんだろうなと思ってますね」。

東京に住むいまも彼女の心の中には奄美の記憶がはっきりと刻まれている。それは離れれば離れるほど……。

カテゴリ : インタビューファイル

掲載: 2002年06月27日 15:00

更新: 2005年05月10日 20:36

ソース: 『bounce』 233号(2002/6/25)

文/大石ハジメ,内田暁男

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