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インタビュー

Ms. Thing


〈奴〉とか、〈あいつ〉とか。ちょっと意気がったタイトルを掲げたビーニ・マン“Dude”にフィーチャーされて脚光を浴びたのがミス・シング。2003年から2004年にかけてジャマイカ~北米~世界のラジオを襲ったこのメガ・シングルは、〈キング・オブ・ダンスホール〉ビーニ・マンの久々のビッグ・ヒットであり、彼の王座をガッチリ固めたのと同時に、(なーんと)弱冠17歳だったミス・シングの名前と顔と声を、ポンと業界マップに浮上させた。なんともビッグな名刺だが、これについて当人は「私はローカル・シーンではそこそこ知られていたけど、あの曲で一気に知名度が上がったから、すごくプラスになったわ。あのヒットがあったからこそ、アルバムの話もまとまったわけだし」とあっさり。そのデビュー・アルバム『Miss Jamaica』の制作期間を尋ねたところ、「12か月くらいかな。結構早かったと思う。シングルとして前にカットした曲もあるからね」。

 最初に彼女の才能に目をつけたのはデイヴ・ケリー。いわずもがなの、ダンスホール界のトップ・プロデューサーだ。DJなのに〈シング〉というややこしい名前の名付け親でもある。レゲエ・アーティストはラスタでもクワイア出身、というケースが案外多いのだが、彼女は「教会で歌ったことはない」ときっぱり。

「最初から現場でマイクを握っていたの。それから、スタジオに呼ばれるようになった」。

 デイヴから学んだことは、「スタジオのなかでは完璧主義に徹して全力を注ぐことね。彼と出会ったのはアルバムのプロジェクトがスタートするずっと前で、自分の作ったリディムに乗れるエネルギーを持ったアーティストとして私を認識してくれていたんだと思う。他のプロデューサーもそうで、私に向いているトラックができたら声をかけてくれるって感じね」。キャリアの急展開はキング=ビーニ・マンとの出会いでさらに拍車がかかった。

「ビーニ・マンはお兄さんみたいな存在で、すごく助けてもらった。私が所属しているマネージメントも彼が回しているショッキング・ヴァイブスだから、ファミリーみたいなもの。彼からは集中力や人を楽しませるポイントみたいなものを学んだわね」。

 アルバムには、ビーニとの共演曲が2曲収録されているほか、島内でトップの人気を競うヴァイブス・カーテルも参加。「彼との“It Haffi Good”と“Rich & Famous”はジャマイカのラジオでガンガンかかっているわよ」と教えてくれた。

 アルバム・タイトルの『Miss Jamaica』は言い得て妙だが、強気ではある。「今のところ反感は買ってないみたい」と笑う。他のフィメール・アーティストとの関係をさりげなく探ったところ、「確かに男性が支配している世界だけど、女性同士で連帯するってわけでもないの。ただ、私はみんなをリスペクトしているし、クールにやっているけど」。マテリアリズムが色濃く出ているリリックで、リル・キムやフォクシー・ブラウンが好きなのでは?と推測していたのだが、「彼女たちは過激すぎるから、お手本にはならないわ。好きなのはアシャンティとビヨンセ」ときた。うーん、日本の高校生と変わらないぞ。しかし、だ。実は彼女、近頃出産を経験したばかり。10代の母親ということでジャマイカではあれこれ意見されているらしいが、「バランスを計って(仕事と子育てを)両立するしかないでしょ」と淡々としたもの。ローリン・ヒルやエリカ・バドゥもブレイク直後に母になったが、ツブれなかった。最新リディムからヒップホップ、ソカまでを天然のリズム感で乗りこなすミス・シングもきっと大丈夫。母は強し、だ。がんばれ。

PROFILE

ミス・シング
ジャマイカ出身、現在18歳のダンスホールDJ。多くのヒット曲/リディムを手掛けてきたプロデューサー、デイヴ・ケリーに見い出されて、〈ミス・シング〉と命名される。その後ビーニ・マン率いるショッキング・ヴァイブスとマネージメント契約を交わすと、2003年にはパンジャビMCの全米ヒットを仕掛けたレーベル、シークエンスとの契約を結ぶ。万全のスタッフにバックアップされながら、同年にはビーニ・マン“Dude”にフィーチャーされる形でデビュー。デイヴ・ケリー制作の〈Fiesta〉リディムを使用した同曲のヒットで一躍注目を集める。2004年9月にはファースト・アルバム『Miss Jamaica』(Sequence/ビクター)をリリース。このたびその日本盤がリリースされたばかり。

カテゴリ : インタビューファイル

掲載: 2005年01月20日 13:00

更新: 2005年01月20日 18:18

ソース: 『bounce』 261号(2004/12/25)

文/池城 美菜子