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インタビュー

パーヴォ・ヤルヴィ

「演奏解釈のDNAを共有すること」
──情報化社会の最先端を歩む若き巨匠指揮者が語る方法論の機微

身体がいくつあっても足りないほどの活躍ぶり。いや、彼の場合は逆かもしれませんね。指揮台に立つ場所がいくつあっても足りないほど、身体の中に音楽的アイデアが充満しているのだと思えて仕方がない。1962年エストニア生まれの若き巨匠、パーヴォ・ヤルヴィ。2009年にリリースされた一連のCDも、もっか手兵とする3つのオーケストラをそれぞれ対照的な演目で振り分けたアルバムだ。

つい先頃来日を果たしたシンシナティ響はまさに蜜月状態のコンビ。ホルストの《惑星》における表層的効果を排した演奏設計はヤルヴィの常だが、この新録音では特に、伴奏パートに織り込まれた巧緻なリズム書法の再現性と、旋律声部に与えた自然な呼吸の両立がお見事。

「それこそがホルストの作曲技法の巧みな点です。この作品で私が最も心惹かれる要素は、響きの透明感と空間的な広がり感。ドイツ風に堅く重苦しい表現は似合わない。むしろ同時代のフランス音楽に通じるもので、静謐な部分での表現力が求められます。現在のシンシナティにはそれがある! 誰にでも大きな音は出せます。しかしピアニシモの領域で、豊かな色彩感と明晰なディテールを維持できるオーケストラは極めて少ない……」

ニューヨーク・フィルの元副首席奏者が、空席だった第1トランペットのポストを得てシンシナティへ移籍するなど、人材リクルート面でも〈ヤルヴィ効果〉は目覚ましい。そんな名手を擁する金管群が《惑星》の随所を輝かしく彩りながら、決して合奏全体を征圧しないバランス感覚も彼一流。これはフランクフルト放送交響楽団とのブルックナー・シリーズにも共通する特質だ。

「まさに練習でも徹底していることです。(ブルックナーでは)確かに金管が主役としての働きをします。しかしそこで彼らが示すべきものはあくまでも内面的な力なのであって、聴き手にパンチを食らわすようなものではありません(笑)」

同じフランクフルトの手兵と取り組んだマーラー作品集が面白い。彼の父君ネーメ・ヤルヴィは広範なレパートリーを誇る指揮者にして、マニアックな曲目まで膨大なレコードコレクションを誇る人物。パーヴォも音盤に囲まれて育ち、然るべく収集家的資質を受け継いだ。

「マーラーのこの4曲を1枚に収めたCDがずっと欲しかったけれど、誰もやらないなら自分で作るしかない(笑)」と録音に臨んだのは、《葬礼》《花の章》《第10番〜アダージョ》に、交響曲第3番第2楽章《野の花が私に語ること》のブリテン編曲による小編成管弦楽版。交響曲の1楽章として企図されながら単独演奏可能な作品を集め、マーラーの最初期と最晩年まで併置する通好みの趣向だ(同じプログラムを実演でも披露しているから凄い!)。特筆すべきは《アダージョ》。鮮明に浮かび上がる対位法的なラインとしなやかなフレージングは、バッハの諸作品どころかルネサンス・ポリフォニーの声楽曲すら連想させずにおかない。そこにオーバーラップするのが、ブルックナーの《第9》の第3楽章でヤルヴィが聴かせた演奏だ。

「おっしゃるとおり、どちらも同じルーツを持つ作品ですからね。マーラーの《アダージョ》は大変な傑作ですが(冒頭のヴィオラの旋律を歌う)、あまりにも荘重なテンポをとるのは論外というもの! この場合、アダージョは音楽的意味での精神状態を象徴する言葉であり、速度指定とは別物として捉えるべきでしょう。そしてブルックナーでも私は、過度にロマン的な表情づけを排除したいと思うのです。
たとえばヴァントは素晴らしいブルックナー指揮者でした。しかし演奏全体は説得力豊かでも、作品のとらえ方は荘重なテンポと堅固なリズムに支えられたオールド・ファッションなものといえます。私はテクスチュアの明晰さや、対位法的な書式と内声の動きから得られるロジックを明確に打ち出したい。〈神への賛美〉という作品の一面に光を当てるのではなく、つまり音楽を宗教的儀式としてではなく、音楽そのものとして、ひとつの建造物のように鳴らしてみたい。言い換えれば、ハイドンの交響曲に向き合うのと同じ態度でブルックナーも演奏できるはず。それは既に録音を終えた《第5》でも確認していただけるでしょう」

2009年に発売されたヤルヴィにとってもうひとつの《第9》は、他ならぬベートーヴェン。ドイツ・カンマーフィルとの交響曲全集が堂々の完結に至った。
「長い旅でした(笑)。セッション自体は足かけ5年ですが、オーケストラと私にとっては10年がかりのプロジェクト。録音に先立つ時期から彼のシンフォニーを集中的に取り上げ、再考を加え……。毎年がその積み重ねです。同じ楽団を相手にこうした作業を繰り返すなんて、滅多にできることではないでしょう? 最終的には演奏者全員が〈解釈のDNA〉を共有しているようなベートーヴェンになったと思います。トランペットやティンパニの使用楽器やヴィブラートの有無ばかりが往々にして取り沙汰されますが、重要なのは当時の演奏法から得た〈情報〉を大局的な作品観に結びつけること。つまりスタイルの正否それ自体が問題ではない。我々は適切な箇所でヴィブラートも用いるし、あらゆることをオープンに試みます。唯一の判断規準は、音楽に対してそれが適切な方法かどうか。メッセージとして意味を持つかどうか」

ドイツ・カンマーフィルと次に取り組むのはシューマンの交響曲。2009年暮れの第3番から収録を開始する。

「ベートーヴェンと同様に、当時の楽器に関する情報から得られることは多々あります。しかしそれ以上に意識したいのは、テキストの忠実な再現によりシューマンの唯一無二な個性がどこまで伝えられるかという点です。分裂気質。桃源郷に遊んでいたかと思えば深いメランコリーに浸るような精神状態。オーケストレーションにもそれが見事に反映されています。しかしこうした極端な気分の変化を伴う音楽を、後世の解釈者は抑制をきかせて聴きやすく角のとれたものにしてしまった。まるでブラームスみたいな響きにね。根本的な誤りです。私はシューマンを去勢された犬のような音楽にするつもりはありませんよ!」

カテゴリ : インタヴュー

掲載: 2010年01月31日 14:44

更新: 2010年02月07日 20:08

ソース: intoxicate vol.83 (2009年12月20日発行)

interview & text :木幡一誠