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インタビュー

eastern youth 『叙景ゼロ番地』



叙景のなかに佇む〈個=ゼロ番地〉の視点で綴られた新作。過去最大級の喪失から再生へのプロセスを、彼らはまたも渾身の力で咆哮する!!



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これはeastern youthの全作品中でも、明確なコンセプトと方法論を持って構築された、もっとも完成度の高い作品のひとつだ。そのコンセプトとは〈ゼロ番地〉であり、方法論とは〈叙景〉であり、つまりそれが『叙景ゼロ番地』。今回のニュー・アルバムについて語る吉野寿(ギター/ヴォイス:以下同)の言葉は、一瞬の淀みもなく明晰だ。

「いまオレが立っているこの場所は、常に〈ゼロ番地〉なんですよ。住所がない、社会から切り取られた場所。その正体は何かというと、〈個〉だと思うんですね。本当は誰しもがゼロ番地の住人だと思うし、そうあるべきだと思っている。そこから見た風景を、10曲通して順を追ってひとつの話にならないかな?と思って作ったんです。最悪のどん底状態から始まって、でも次の一歩を踏み出さないといかんぞという、喪失から再生へのプロセスを」。

なぜ〈喪失〉から始まらなければいけないのかは、言うまでもない。昨年の〈3.11〉以降の社会状況に重ね合わせ、自身も「歌うべき言葉を失った」と振り返る吉野にとっても、アルバム制作は喪失から再生へのプロセスそのものだった。

「言葉を失ったぶん、叙景を並べることによって、心のなかの大事なことを浮き上がらせることはできないかな?と思ったんですよ。極端に言えば物の名詞や、物の状態ばかりを並べるアプローチですね。そこで自分の気持ちに映る風景を、そのまま写し取ることはできないかな?と。結果的に、すべてを叙景でまとめる形にはならなかったですけど、いまできることはやれたと思います」。

もしかすると、新しいアプローチがいつもの彼ららしくないように聴こえる瞬間もあるかもしれない。恥ずかしながら筆者も、壮絶な演奏のパワー、練り込んだアレンジ、楽曲の完成度の高さに圧倒されつつも、いつもより落ち着いた感じという第一印象を持った。それは前作『心ノ底ニ灯火トモセ』で描かれた、街のなかで這いつくばるように日々を生きる人々、吉野自身を含めたそれらの人間描写があまりに熱っぽかったことへの単純な対比に過ぎなかったと、いまにして思う。アングルが変わっただけで、eastern youthの核心にブレのないことは、何度も聴き込むほどにズシリと胸に響いてくる。

「今回は、〈人は叙景としてそこにいる〉という感じですね。(CDジャケットを見て)だからみんな後ろ姿なんですよ。そしてピントは道路に合っていて、人には合っていない。それが〈ゼロ番地〉なんです。ゼロ番地があるからオレたちは世の中に関わっていけるんであって、オレにとって最後の砦はゼロ番地なんです。だから決してネガティヴな意味だけではないけど、ゼロ番地は常に憂いや絶望に満ちているし、誰とも関われない孤独に満ちている。ただ、最後に帰る故郷はゼロ番地なんです。本当はみんなそうなんじゃないかなというふうに、オレは人間をそういうふうに解釈してます」。

それにしても。吉野が急性心筋梗塞に倒れたあと、〈オレが作る曲は、オレが生きるための小さい灯火〉という思いを乗せて作られた『心ノ底ニ灯火トモセ』といい、今回の『叙景ゼロ番地』といい、バンド結成25年に迫ろうかといういまもなお、表現の本質に向けて闇雲に肉迫し続ける彼らの姿は本当に感動的だ。これほど音楽に対して、そして人が生きることに対して誠実であり続けるバンドを、より若い、新しいリスナーに、いまこそ評価してほしいと切に願う。

「たくさんの主題を扱うのではなく、ひとつの主題をあらゆる角度から掘り下げていく。やり方は変わっていくでしょうけど、それは生きてる限り続くんじゃないかな。それが生きてるってことだと解釈してますけどね。やっていくしかないんですよ、本当に。それしかないんです」。



▼eastern youthの関連作。

左から、2008年のコンピ『極東最前線 2』、2009年作『歩幅と太陽』、2011年作『心ノ底ニ灯火トモセ』(すべて裸足の音楽社/バップ)

 

▼メンバーによる別プロジェクトの作品。

左から、ひょうたんの2008年作『給水塔』(SiDeOuT)、bedside yoshinoの2010年作『bedside yoshino#4』(吉野製作所)

カテゴリ : インタビューファイル

掲載: 2012年10月11日 14:45

更新: 2012年10月11日 14:45

ソース: bounce 348号(2012年9月25日発行)

インタヴュー・文/宮本英夫

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