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第4回 ─ ハイという名のもとに

連載
IN THE SHADOW OF SOUL
公開
2005/04/14   12:00
更新
2005/04/14   19:43
ソース
『bounce』 263号(2005/3/25)
テキスト
文/JAM

優雅なグルーヴをディープに追求した究極のメンフィス・ソウル

ハイはメンフィスで57年に産声を上げた名門中の名門レーベルである。同じくメンフィスに拠を構えたスタックス/ヴォルトと覇を競いながら、70年代のソウル・ミュージックをより実りあるものにしてくれた、ソウル史上もっとも重要なレーベルのひとつと言っていいだろう。

 メンフィスといえば、同地を音楽の都として全米に知らしめたエルヴィス・プレスリーの存在を忘れるわけにはいかないが、実は設立当初のハイにもエルヴィスの影はハッキリと見て取れる。そもそもハイ創立者のひとりであるレイ・ハリスはエルヴィスのリリース拠点だったレーベル=サンでシングルを出していたこともある人だし、レイがパートナーとして信頼を寄せたビル・カントレル(ハイの初代社長)、クイントン・クランチもサンでハウス・プロデューサー的な仕事をしていた人たちだ。

 そんな彼らが手掛けた初期のハイ作品にロックンロール的なアレンジを効かせたものが多いのも自然な流れだったのだろう。60年代の初頭から中盤にかけてはビル・ブラック・コンボ、エース・キャノン、ウィリー・ミッチェルといったアーティストからコンスタントにヒットが生まれるようになり、ロンドンが配給に名乗りを上げたこともあって、この時期にレーベルの基盤は整ったように見えた。

 しかし、一時はカントリーに食指を動かすなど八方手は尽くすものの、アーティスト・レパートリーはなかなか豊かにならず、60年代後半のハイは決して堅調とは言えなかった。そんな悶々とした状況を打ち破ったのが、レーベルの舵取りを任されたウィリー・ミッチェルである(70年に社長就任)。何より大きかったのは、69年にハイに迎え入れ、ウィリーがプロデュースを一手に引き受けたアル・グリーンの大成功だ。音楽的な栄養価を損なうことなく、彼をセックス・シンボルたり得るキャラクターへと育て上げたミッチェルは、71年の“Let's Stay Together”を皮切りにソウル・チャート制覇を次々と成し遂げ、ついにはハイに黄金時代をもたらしている。一方、この時期にはハイのスタジオ(ロイヤル・レコーディング・スタジオ)でしか鳴らすことのできない、いわゆる〈ハイ・サウンド〉も確立され、その唯一無二のサウンドを叩き出したメイボン&ティニーのホッジス兄弟(それぞれベースとギター)、ハワード・グライムス(ドラムス)といったミュージシャンたちにも眩し過ぎるほどのスポットが当てられることになった。こういったレーベルで、そのレーベル名を冠した〈○○○サウンド〉と呼んで通りがいいのはこのハイとせいぜいフィラデルフィア・インターナショナルぐらいのものじゃないだろうか。

 もちろん、アル・グリーン以外にも、ハイのソウル・アクトの先駆けとなったドン・ブライアント、メンフィスのファースト・レディーことアン・ピーブルズ、屈強なソウルマンとしてシカゴからメンフィスに乗り込んできたシル・ジョンソンとオーティス・クレイ、サザン・ソウル界最強の表現者たるOV・ライトらが傑作アルバムを多数残しているし、シングルに目を移せば、そこでも数え切れないほどの秀作が押し合いへし合い状態のハイ。ここまで高水準の作品にまみれたレーベルも他例を見ないだろう。