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鈴木晶氏「ディアギレフ―美を追い続けた男」講演会レポート(7月6日)その1

1928年スイス・モントルーでのバレエ・リュス「レ・シルフィード」の映像
(音声なし)British Pathe YouTubeサイトより
7月6日(日)国立新美術館3階講堂にて舞踏評論家、法政大学教授、早稲田大学大学院客員教授の鈴木晶氏による講演会が行われました。講演はバレエの歴史の中での「バレエ・リュス」の位置づけから始まり、その団長だったディアギレフの生涯、及び「バレエ・リュス」の主要作品の紹介がされました。
<ディアギレフの生涯>(1872:明治5年~1929:昭和4年)
彼の名刺には「セルジュ・ド・ディアギレフ」という貴族出身を示す名前が書いてありました。当時のロシアでは貴族の称号をお金で買うことができ、ディアギレフの祖先もウォッカで財を成し、貴族となりました。ディアギレフは芸術好きの青年で、サンクトペテルブルク大学では芸術サークルを作り、この芸術サークルが後の「バレエ・リュス」立ち上げにつながりました。

彼は音楽を大作曲家のリムスキー=コルサコフに学んでおり、自身の作品も残しています。歌曲「憶えているかい、マリア」がCDに録音されています。
ディアギレフ作曲:歌曲「憶えているかい、マリア」
 浦野智行(バリトン) レーラ・アウエルバッハ(ピアノ)
キング KKCC-3007廃盤→海外盤BIS BIS1502

<ディアギレフ年譜>
1899~1904年 ロシアで最初の美術印刷本「芸術世界」を刊行(赤字が続き廃刊)
1899~1901年 マリインスキー劇場で「年鑑」を編纂(凝りすぎて公職追放)。ゲイであることがスキャンダルとなり、パリに活動拠点を移す。
1906年 興行主となり、パリでロシア絵画展を開催(第1回ロシア・シーズン)。
1907年 ロシア音楽連続コンサートを開催(第2回ロシア・シーズン)。
1908年 歌劇「ボリス・ゴドノフ」を上演、主演のバス歌手、シャリアピンが有名になる(第3回ロシア・シーズン)
1909年 第1回「バレエ・リュス」(第4回ロシア・シーズン)。オペラとバレエを上演する予定だったが、ロシア皇室の内紛で援助を得られず、仕方なくバレエのみを上演。これが大当たり。
1909~29年 「バレエ・リュス」の時代。1911年に「バレエ・リュス」の名称が定着。
1929年 糖尿病のためベニスで亡くなる。(シャンパン、キャビア、ボンボンばかりを口にしていた食生活が災いした)
<バレエ・リュスの映像>
ディアギレフは舞台芸術はナマのものだという信条から、映像を撮るのを嫌がっていました。動画は残っていないとされていましたが、数年前、スイスで上演した「レ・シルフィード」の1分間ほどのサイレント・フィルム(音声なし)が見つかり、現在YouTubeで観ることができます(冒頭に掲載)。
<まとめ>
「バレエ・リュス」とは
1.国、民族の名前がついた初のバレエ団。国の特徴を出したバレエ団だった。
2.総合舞台芸術。一流の作曲家、画家が招かれ、踊りと対等であることが新しかった。19世紀までは、音楽、衣装、装置は二の次だった。
3.男性バレエが復活。19世紀のクラシック・バレエは女性が主役だった。バレエ・リュスは男性が中心となって主役を演じ。
4.巡回バレエ団、民間企業(ツアー・カンパニー)だった。1929年の世界大恐慌以前、かつ個人の大金持ちが存在したという時代背景があり、ロシア貴族の女性にモテたディアギレフは巧みに援助を得ていた。それまでのバレエ団は劇場付属で、公立だった。
※関連CDとして、ディアギレフの歌曲が入ったアルバム、及びドイツ・ヘンスラー社のCDシリーズ「バレエ・リュス」(現在第9集まで発売)を掲載します。

カテゴリ : Classical

掲載: 2014年06月18日 19:30