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薄井憲二氏「バレエ・リュスの功績」講演会レポート(7月13日)その2

参考映像:ハンブルク・バレエ、ノイマイヤー振付R.シュトラウス『ヨゼフ伝説』
(2分40秒からはR.シュトラウスの1941年作のバレエ『いにしえの祭り』)

7月13日(日)国立新美術館3階講堂にて薄井憲二氏(公益社団法人日本バレエ協会会長)による講演会が行われました。ここでは後半の「ディアギレフのバレエ・リュスの功績」について採録します。
ディアギレフ(1872~1929)の出身地ペルミについて
ペルミはモスクワの東方1385Kmにあるペルミ地方の州都。ディアギレフ家はウォッカの製造をしていた地方貴族でした。ディアギレフの実家はシベリア街道沿いにあり、立派ではないが大きな家であるとのこと。ペルミにはセルゲイ・ディアギレフ博物館があり、ペルミ・オペラ・バレエ劇場の図書室にはディアギレフのゆかしの品が収蔵されています。薄井氏が調べたところでは、ディアギレフはペテルブルクへ出るまで、バレエとは関係がなかったとのこと。
1909年 第1回のバレエ・リュス公演について
当初、パリ・オペラ座を借りて、バレエとオペラを上演する予定でした。ところが、ロシア皇帝の寵愛を受けていたバレリーナのマチルダ・クシェシンスカ(1872~1971)が自分の出演演目が無いことを理由に、政治力を使ってロシア宮廷から援助を出させませんでした。ディアギレフはやむなくお金がかかるオペラを減らしてバレエ中心としました。ところが当時バレエは低俗なものと見られていたため、パリ・オペラ座は国立の建物での演目にそぐわないと上演を断りました。そのためディアギレフはパリ・シャトレ座で上演を決行します。ところがパリ・シャトレ座でのバレエ・リュス公演が大成功すると、パリ・オペラ座はディアギレフにバレエ上演をリクエストしたとのことです。
ミハイル・フォーキン(1880~1942)の時代 1909~14年
1909年の第1回バレエ・リュスから1912年まで、振付を担当したのはフォーキンでした。中でも最も成功したのは『ポロヴェツ人の踊り』(=ボロディン作曲『だったん人の踊り』)と『クレオパトラ』で、異国趣味と、大勢で野蛮な男性の踊りを見せたのがパリの観衆に受けました。ダンサーでは今日でも通用する技術を魅力をもったヴァーツラフ・ニジンスキー(1890~1950)がスターとなりました。『アルミードの館』や『ばらの精』(ウェーバー作曲『舞踏への勧誘』)でのジャンプの高さや距離は伝説となっています。1911年にはクシェシンスカを出演させるために『白鳥の湖』を上演。上演にあたっては2幕に仕立て直しし、第2幕にはニジンスキーの希望で『くるみ割り人形』の「金平糖の踊り」が挿入されました。1912年よりディアギレフはニジンスキーを演出家として起用し、フォーキンはバレエ・リュスを退団します。ところが1913年、ディアギレフは南米巡業中にニジンスキーが電撃結婚したことに激怒して、ニジンスキーを解雇(ニジンスキーはディアギレフの同性愛の対象だった)。ディアギレフはフォーキンに5時間詫び続け、振付家として呼び戻します。1914年はフォーキンの振付で『ヨゼフ伝説』が初演されます。主役を演じたのはディアギレフがロシアで見出した美青年マシーンでした。ここでは薄井氏が「いい曲」とお話しされた『ヨゼフ伝説』のCD、DVD(ノイマイヤーによる振付復元版)をご紹介します。

レオニード・マシーン(1896~1979)の時代 1915~20年
「天才を見つける天才」ディアギレフにその才能を見出された美青年マシーンは1915年からフォーキンに代わって振付家、ダンサーとして活躍します。この時代になるとバレエ・リュスはパリの芸術世界の中心的な存在感を放っており、パブロ・ピカソ(1881~1973)やジャン・コクトー(1889~1963)などの超一流の芸術家も参画するようになります。その第1弾が1917年の『パラード』でした。音楽はサティ、美術と衣裳はピカソ、台本はコクトー、振付と「中国の手品師」役はマシーンが務めました。フランスのサーカス団とアメリカのサーカス団が向かい合って興行し、双方が演目をチラッと見せるという不思議な台本がサティの音楽にぴたりと合い、ダンサーが嫌がったといわれる「動くキュービズム」と呼ばれたピカソの衣裳も話題を呼びました。ここでは『パラード』のCDをご紹介します(DVDは現役盤なし)。

ブロニスラヴァ・ニジンスカ(1891~1972)の時代 1921~26年
1921年にマシーンが解雇されると、バレエ・リュスの振付はニジンスキーの妹、ニジンスカに託されることになります。ニジンスカ時代の傑作は『結婚』と『牝鹿』。前者はストラヴィンスキー作曲のバレエ・カンタータで薄井氏は「20世紀の傑作」と呼んでいます。後者はプーランク作曲の、やはり合唱入りのバレエで、薄井氏は「ローランサンの美術も素晴らしい」と語りましたが、なかなか上演されないことを残念がっていました。
ここでは『結婚』のCD、DVD、『牝鹿』のCDをご紹介します。

ジョージ・バランシンの時代(1904~83)の時代 1925~29年
ソ連出身のバランシンは、1924年の西側巡業中にディアギレフに認められ、バレエ・リュスに参加しました。バランシンはソ連に帰らず、そのまま西側に留まります。バレエ・リュスの最後のバレエとなった『放蕩息子』はバランシンの振付でした。美術はフランスの画家ジョルジュ・ルオーが担当しました。ここでは『放蕩息子』のCD、DVDをご紹介します。

まとめ
ディアギレフのバレエ・リュスが革新的だったことに、次のようなエピソードがあります。『眠りの森の美女』のリハーサルの際にダンサーたちが「今後はやさしいね」と語り合ったというものです。フォーキンやマシーンが作り上げたバレエは、19世紀にロシアで確立した技術をベースとしていましたが、非常に革新的であった、というのが薄井氏の見解でした。

カテゴリ : Classical

掲載: 2014年06月18日 19:30