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インタビュー

Date Course Pentagon Royal Garden(2)

いちばん賭だったのは、フロアがついてくるかどうか

――いきなりですが、そもそも何でDCPRGのようなことをやろうと思ったのでしょうか?

 最初にやろうと思ったのは97年くらいで。 その段階で、クラブで、しかもジャズというものがやりたくて、UFOとかトーキン・ラウドとかありましたけど、70年代マイルスへのリスペクトっていう騒ぎには、 まだなるか、ならないかぐらいの時期だったと思うんですよ。 で、ともかく、70年代マイルス好きだし、やりたいってことからですね。

――まず、人集めから始まったわけですよね。

 そうです。

――それはすんなり行ったんですか?

 行った。もう友達から選んだだけですから。

――「70年代マイルス」っていうのを一応掲げて、参加してくる人もお互い、そのコンセプトで意思の統一があったんですか?

 ないない(笑)。そういうのは、周りの人が思うほどないんですよ。バンドマンなんて、菊地が新しいバンド始めたから、やるか、やらないか、 ってことだけで、何をやるかなんて二の次三の次なんですよ。 仕切る奴が考えていればいいんでね。70年代マイルスなんて聞いたこともない人もいるもん、メンバーには(笑)。

――「70年代マイルス」って、やっぱり90年代後半以降、すごく意識されたし、そういう方向のことをやりたいというミュージシャンが、僕の知っている範囲でも結構いました。だけど、実際にはなかなか形にならなかったと思います。菊地さんはなぜにそこができてしまったんでしょうね?

 プランニングにはいつも完璧な自信を持っているんですよ。 問題は、それが受けるかどうか。今回、いちばん賭だったのは、(クラブの)フロアがついてくるかどうかだったんですよ。 付いてこなかったら辞めようと思ってた。 70年代マイルスと言っても、ダンス・ミュージック、クラブ・ミュージックとして機能しないと意味がないと思っていたから、 なにせ、ビッグ・バンドってコストもかかりますからね。過去のジャズの歴史でも、ビッグ・バンドやったおかげで寿命縮めた人とかいますから(笑)。

――実際には、まず何からやろうとプラニングされたんですか?

 菊地雅章の『ススト』からカバーをやろうと。新しいバンドを立ち上げるときって、カバーがあると箔が付くじゃないですか(笑)。 ディーボの「サティスファクション」であるとか、YMOの「ファイヤークラッカー」であるとか。 それで、『ススト』から「サークルライン」っていう7拍子の曲を、ちょっと踊りづらいんですけど、フロアに持ち込んでやりたかったんですよ。

――個人的には『ススト』好きですし、すごく嬉しいアプローチなんですが、菊地さんとしては、なぜに『ススト』だったんですか?

 やっぱり、リスペクタブルなアルバムだと思うんですよ。しかも、ライブ盤も出ていないし。 あの曲、聴けば分かるんですけど、完全コピーなんですよ。 あれがフロアで流されることも初めてだし、それで、客が踊るようなことができたら、ほんとうにリスペクト以外の何物でもないだろうと思ったわけです。 それと(マイルスの)『OnThe Corner』型の、ズレまくるファンク、バグが出まくるファンク。 あと、新しいアイディアで、ポリグルーヴ式のファンクというか、アルバムの一曲目(「Catch22」)になるんですけど、 中心のBPMがなくて、11人が個々に別のBPMで走っていると、最大公約数的なBPMが聞こえるっていうスタイル。 この三本柱でやれば、絶対クラブ・ミュージックにアタックできると思ったんですよ。

カテゴリ : ニューフェイズ

掲載: 2002年06月20日 15:00

更新: 2003年10月29日 15:58

文/原 雅明