インタヴュー熊谷和徳
アートとしてのタップダンスの再発見
「タップダンス」という言葉を聴いて、人はまず何を思い浮かべるのだろう。例えば、テレビショウの中で陽気に踊る黒人の姿だろうか。あるいはストリートや公園で、ゲリラ的に行なわれる大道芸のようなものだろうか。少なくとも僕はタップダンスについてそういった非常に限定的なイメージしか持ち合わせていなかった。しかし熊谷和徳のタップを初めて目撃し、自分の中で何かが確実に変容するのがわかった。音とは、身体表現とは、ダンスとはなにか。そんな芸術そのものへの批評的根源的な問いを触発する新しいアートの萌芽を、そこに見ることができたからだ。
今までタップダンスを見落としていたのは、なにも僕だけではないはずだ。タップダンスというものが「アート」として正当に扱われているのを僕はほとんど見たことがない。そのことに熊谷は、タップの第一人者として誰よりも意識的だし、誰よりもその状況を変えたいと願っている。彼はヒップホップなどで使われる「シーン」という言葉をよく使う。それはタップダンサーたちが、必ずしも社会から然るべきリスペクトを得ていないという現状認識があるからだ。「タップシーン自体が盛り上がらないと、一人でやっていても意味がない」と熊谷は言う。人々のタップへの意識はまだ必ずしも充分とは言えない。以下の熊谷の発言には、タップをめぐるそうした状況へ葛藤がある。──「タップはもともと黒人の文化としてもっと深いものだし、もっと世の中で良いものとして扱われてもいいんじゃないかな。例えばバレエだとかは文化として認められている。タップもそういうもののはずなので、もっとリスペクトされるアートとしてあるべきだなと思います。何が違うのかなって思うんですよね。観る人の価値観なのか。アフリカで演奏している人たちはストリートでやっているけど、カーネギーホールでクラシックを演奏しているのと、一つの音楽としては変わらないものじゃないですか。両方が同じ価値のあるものなのに、こっちは〈土着的〉、こっちは〈素晴らしいもの〉っていうイメージがあって、それをすごく残念に思う。だからタップも親が子どもに習わせたいなって思うようになったらいいなって思います」。