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インタビュー

AKLO 『THE PACKAGE』

 

勝ち上がり方の新しさと鮮烈さで一躍話題となった男の待ち望んだ展開……ここにパッケージされた時代の胎動とフレッシュな音楽を聴き逃すな!

 

 

「次の年が日本のヒップホップにとって大きな年になるってことは、2011年の時点でもうわかってましたよね。〈これ来年ヤバいんじゃない?〉って」。

そう話すAKLO。ヒップホップを点ではなく流れで聴いているとフレッシュネスがどんどん這い上がってくるようなワクワクする瞬間がたびたびあって、そうした構造がようやく日本でも整ったのが2011年だったことは、顧みるまでもなく明白だった。その台風の目だったのがCherry Brownであり、SALUであり、KLOOZであり、あるいはGOKU GREENだったわけだが、AKLOこそがそんな状況を導いた張本人なのだ。そしてフリー音源の発表を通じて名を馳せてきた彼が、ついにフィジカルでファースト・アルバムをリリースするのだが、そのタイトルが『THE PACKAGE』というのも気が利いている。彼の歩みをよく知る人であればあるほど、そこに何かしらの意図を感じないわけにはいかないはずだ。

 

俺を知ったほうがいい

AKLOは東京生まれ。父の故郷であるメキシコやオレゴン、大阪、大分、NY、そして東京……と多くの街を転々とするなかで育まれてきた彼のヒップホップ・アイデンティティーは、オレゴンで過ごした少年時代に親しんだ全盛期のノー・リミット軍団によって開眼したという。

「ミスティカル、スヌープ、C・マーダー……凄くハマって、かっこいいな、俺もやりたいなと思いました。ノー・リミット以外で好きだったのもバスタ・ライムズとか。当時の俺にはスーパー・ハイパー・モンスターみたいな(笑)。自分とリレートできない感じのものとして好きだったんですよ」。

90年代末に帰国してからはNYサウンド一辺倒な周囲のヒップホップ観にギャップも感じたそうだが、大分は別府で過ごした大学時代に彼はマイクを握るようになる。当初は本人いわく「最終的にノー・リミット好きのDJに出会って、メインストリームの新譜中心の超チャラいパーティーをやってました」という時期を経て、「超アンダーグラウンド好きの友達の影響でKRUSHさんやBAKUくんにハマりだしてからは、自分で実験的なトラックを作ったりして。INDENに呼ばれて大阪でライヴやったり、GOMAさんやdj klockさんと繋がったり、おもしろい動きができそうなところにはいたんですよね」と振り幅の広い動きで自身の志向を模索していたようだ。ギタリストの空哲平と組んだセッション・プロジェクト〈AKLOと空〉もこの頃の試みだったそうだ。が、その後のNY生活で彼は自分に正直になった。

「NYには自分探しみたいなもんで行ったんですけど(笑)、ハーレムで出会った奴らが必死で音楽やってる姿と、エクスペリメンタルなクリエイティヴィティーに対する美学みたいなものの間にだんだんギャップができていって。結局、メインストリームがやっぱり素直でストレートでかっこいいと思うようになって、もう戻って来れないほど振り切れちゃったんですね。そこが俺のスタートラインなんですよ」。

その後、dj klockの作品にpalabritoと名乗って参加したり、AKLOと空でメジャー主催のオーディションに勝ち抜いたり、可能性がさまざまに広がるなかで東京に拠点を移すものの、当初は思うように進まない活動からフラストレーションに苛まれていたという。そんな状況を打破する手段となったのがネット上でフリー配信するミックステープだった。

「ミックステープを出したのは、シーンがあまりに俺を受け入れなかったからですね。東京でどんなライヴを観ても俺のほうが絶対イケてんのになと思っても、アウトサイダーなんでシーンに入る方法がない……ってストレスを抱えてて、何をやってもダメでしたね。でも、他人のライヴは観てたから自信だけはあったんです。だからミックステープは、〈あまりに俺のことを知らなさすぎる、ちょっとぐらい知ったほうがいいぜ〉っていう一心で作ってましたね」。

 

マックスでやればいける

AKLOが『DJ UWAY presents A DAY ON THE WAY』を発表した2009年は、ドレイクのミックステープ版『So Far Gone』から時代のアンセム“Best I Ever Had”が世界的ヒットとなった年でもある。

「もちろんミックステープはずっと聴いてましたけど、やっぱりドレイクは大きかったですね。彼はジューイッシュのカナダ人で、一般のアメリカ人には軽く見られてたりするんで、すげえ不利なんですよ。それがあんなに認められて大成功してモテまくってるって、ワクワクしましたね。弱い立場の奴がひっくり返したな、自分も何かしたいなと思いましたね」。

まだ日本産のミックステープ作品もそう多くはなく、フリーの作品に親しむ作法も現在ほど確立されていなかった頃ではあったが、『A DAY ON THE WAY』は多くの早耳の間で話題となり、年明けの2010年2月には第2弾『2.0』も発表。その後にはさまざまな客演のオファーが舞い込みはじめ(別掲のディスクガイド参照)、AKLOは一躍ホットな旬の名前となった。

「『A DAY ON THE WAY』は1週間ぐらいでダウンロードが異常に増えていって。俺に期待してくれる人が出てきたって嬉しさの余り、できるだけ速攻で出したいって思って『2.0』を作ったんですね。シーンに入れなかった俺がヘッズたちに先に知られたことによって、無視できない状況を作れたというのが嬉しかったですね」。

そうした状況をわかりやすく反映したのは、まさにダウンロードをテーマにしたSIMONの“Download”への登場だろう。そして、同曲を手掛けたJIGGを経由して彼はBACHLOGIC主宰のOne Year Warとディールを結ぶことになった。

「JIGGくんは俺がBACHLOGICとやりたがってるのも知ってて。DOBERMAN INCから俺は凄い好きで聴いてたんです。SEEDAさんの『花と雨』を聴いた時は、ラップもトラックもUSモノを聴いてるのと同列でフィールできるっていうのに驚きました。あれを聴いて俺もいままでかけてたブレーキが外れたというか、俺も自分が日本語でリーチできる格好良さをマックスでやれば絶対いけると思えましたね」。

そして……「自分のなかで大きく持ってたアルバムのコンセプト〈強さとかっこよさ〉が出た曲」という先行シングル“RED PILL”を経て完成したのが今回の『THE PACKAGE』だ。バリバリのスワッグ・チューンという印象も強いAKLOだが、BLとJIGGがプロデュースを分け合った本作では、文字通りの“FOOTPRINT”や“YOUR LANE”など、いままでになく心情を吐露したリリカルな側面も披露されている。

「BLくんは俺のパーソナルな面を出したかったみたいで、最初に“BEAST MODE”が出来てから、〈こういうのはこれ1曲でいいから!〉って長らくスワッグ禁止令が出てたんですよ(笑)。で、半分ほど作ったある日、〈今日から解禁やから〉って言われて。そんなときに作ったのが“CHASER”っすね。やっぱりボースティングの曲とかが得意だと思うんで」。

その“CHASER”や“NEXT TO ME”ではヒプノティックなハード・バウンスに乗りつつ、“サッカー”や“SHOT”では葛藤していた時期に培われたシーンへの愛憎も客観的に曝け出してみせる。フックを書いてからNORIKIYOの招聘を決めたという“LIGHT & SHADOW”など最小限のゲストと共に完成されたこの『THE PACKAGE』にはそんなポテンシャルの程が見事にパッケージされているのだ。

「日本でメインストリームを作りたい願望があるんですよ。そこに関していま俺ができることはこれでしょう。単純にかっこいいラップをかっこいいプロデューサーとやってるっていう」。

メジャーが絶対優位だった時代は過ぎ、フィジカルが上位概念だった時代は過ぎ、フリーならかっこよかった時代も過ぎた。単純にかっこいいものだけがかっこいいのだ。AKLOはそれを証明してくれる。

 

▼関連盤を紹介。

左から、『THE PACKAGE』からの先行シングル『RED PILL』(One Year War/Manhattan/LEXINGTON)、AKLOと空の2009年作『AKLOと空』(ROOTS)、NORIKIYOの2011年作『メランコリック人生』(諭吉/ファイル)

 

カテゴリ : インタビューファイル

掲載: 2012年08月29日 17:59

更新: 2012年08月29日 17:59

ソース: bounce 347号(2012年8月25日発行)

インタヴュー・文/出嶌孝次