インタビュー

Felix Da Housecat

ニャ~ン! ある時はキンキー・アフロとメガネがキュートな丸顔のオッサン、またある時は世界中を飛び回る辣腕のDJ、しかしてその実体は……みんなが待ってたフィリックス・ダ・ハウスキャットなのですニャ~ン!!


 71年にデトロイトで生まれ、シカゴで育ったフィリックス・ダ・ハウスキャットが音楽制作を始めたのは、彼が14歳の時の話。それ以来、20年近く音楽活動をしている彼だが、実はそのキャリアは一言で言い切れるほど単純なものではない。波乱万丈!?ともとれる彼の音楽遍歴とは? そして、今回のアルバム『Devin Dazzle And The Neon Fever』で行き着いたところとは?

私のためにハウスを作ってよ!

 フィリックスの幼少時、彼が音楽と出会うきっかけを作ったのは、サックス奏者だった彼の父親である。スティーヴィー・ワンダー、アース・ウィンド&ファイアなどの音楽を教えられた彼は、それらソウル・アーティストに心惹かれた。そんな彼はやがて、いまなお大きな影響を受け続け、傾倒しているアーティストを知ることになる。

「小さい頃にマーチング・バンドでクラリネットを吹いていたんだけど、トランペットを吹いていたヤツがキーボードも弾けたんだ。彼はプリンスのバラード“Purple Rain”を弾いたりして、女のコたちが〈カッコいい!〉なんて言ってるのを見てね。とにかく俺には衝撃的だったよ。そこで俺は自分のクラリネットをジッと見ながら〈クラリネットなんてやっている場合じゃないっ〉って思って放り投げたよ(笑)。(プリンスの)曲作りやプロデュースの仕方といったものも研究したね。ただ唯一、ステージ上でパンツ一丁で踊る芸当は俺にはできない(笑)」。

 シカゴで育っただけあって、フィリックスは同地で生まれたシカゴ・ハウスの洗礼も自然と受けることになる。ジェイミー・プリンシパル、マーシャル・ジェファーソン、リル・ルイスらの曲を聴き、ラジオでその当時スタートしたばかりの〈Hot Mix DJ〉の真似事で曲作りも開始した。最初のパートナーとなったのは、フューチャー名義で“Acid Trax”を生み出したDJピエール。彼と作った曲“Phantasy Girl”をリリースしたことが、本当の意味でのキャリアのスタートといえる。

  が、「ハウスはNYとヨーロッパで大流行していたけど、シカゴでは終わっていて、周りはヒップホップ一色になっていたんだ」という理由から、フィリックスの音楽的な好奇心はハウスから徐々に遠のいていった。ハイスクール時代にはR&Bバンドを組み、大学時代にはヒップホップを作りはじめ、「方向性を見失っていた」フィリックスではあったが、やがて彼をふたたびハウスへと向かわせる「もっとも決定的な転換期といえる出来事」が起こった。

「ある時、現在の妻に会ったんだけど、彼女に〈昔はクラブ・ミュージックを作っていたけど、いろいろ嫌な目にもあって、もうハウスに興味はなくなってヒップホップを作っているんだ〉って話しているうちに、彼女が〈私はハウスが大好きだから、私のためにハウスの曲を作ってよ!〉なんて言い出してね。しばらくハウスなんて作っていなかったし自信もなかったけど、彼女の関心を惹くためだけにハウスの曲をもう一度だけ作ったんだ。それを気に入ってくれた彼女に勇気づけられて、NYにいるピエールに5年ぶりぐらいに連絡を取ってみたんだ」。

カテゴリ : インタビューファイル

掲載: 2004年04月28日 18:00

更新: 2004年05月13日 15:09

ソース: 『bounce』 253号(2004/4/25)

文/池田 義昭