インタビュー

勝手にしやがれ(3)

やっぱり曲なんですよ

「お互い刺激し合えればバンドの活性化にも繋がるし、自然にそういうメンツになっていった。たまたま持ってる楽器がこういう感じだったっていうだけで。仮に、そこにギターがいたらギターがいたなりのアンサンブルを作ってただろうけど……でも偶然こういう形になった。楽器を持って音を出す手前の段階で信頼関係があるから、そこがまず大切。なんの真似事もしていないという意識があって、そういう責任感をメンバーのひとりひとりが持ってる。出てる音の、その目先の問題じゃなくて、まず信頼関係のブ厚さみたいなところでどうやって新しいことを作っていくか?っていうことがひとりひとりの掟になっているわけで、メンバーはみんなそれをわかってると思うんですよ」(武藤)。

 なんの真似事もしていない。新しいことを作る。これはなにも、前人未到の荒野を〈あえて〉開拓する、という意味ではない。事実、勝手にしやがれの音楽は、誰も聴いたことのない奇妙キテレツなものではない。ただ、彼らを語るうえで頻出する〈ジャズ・パンク〉〈ネオ・スウィング〉というキーワードは、彼らのある種のムードを示してはいるものの、それらの言葉は彼らにはいくぶん窮屈にすぎる。その窮屈さこそが彼らの本質だと断言してもいい。

「メンバーはもともとパンク・バンドやロック・バンドをやってた連中だから、演奏しながら新しいフレーズのインプロヴィゼーションで爆発させていくよりも、みんなで一致団結した演奏のなかでどうハジけられるか?っていうところに快感を得ていると思うんですよ。そこの美学はみんな共通してると思います」(武藤)。

 ジャズとパンクの融合ではなく、パンクのエナジーでジャズを演奏する──これが勝手にしやがれの基本姿勢だ。そういってしまうと非常に単純な図式に思われるかもしれないが、そこには、メンバー個々が生活や人生を賭けて挑まねばならないある種のシビアさが渦巻いているように思えるし、事実、ある種の決め事を持って爆発を呼び起こすには、その〈決め事〉を箸を使うよりも自然にこなせるだけ身体に染み込ませることが必要だ。より崇高なテクニックで音楽の神に召されるのも尊いものだが、ここにある〈これ〉をいかにして新鮮なものとして提示するか?という命題に応えるには、愛情と鍛練が必要で、こうしたアティテュードもまた、音楽を先に進めてきたのだ。勝手にしやがれの場合、その愛情の源は、やはり武藤の描き出す世界観にある。

「勝手にしやがれは偶然こんな編成になってたりするけど、でもウチの売りはそういうとこじゃなくて、やっぱり曲なんですよ。こんな編成でこんなアレンジで聴かせるから珍しいんじゃなくて、曲がまず個性。だから、ギター、ベース、ドラムっていうありきたりの編成でやってたとしても、ウチの曲は独特だと思う」(武藤)。

 なんて美意識とひらめきに満ちた音楽だろう──勝手にしやがれを初めて耳にし、ライヴに触れたとき、こう感じたものだが、美意識は武藤の描き出す世界に、ひらめきはメンバーそれぞれの柔軟な個性に、委ねられているように思う。そして、勝手にしやがれワールドの味わい方は、リスナー個々人に託されている。

「〈ギターの音が聞こえてくるね〉〈マンドリン入れたいよね〉、そういう想像力が働いてくるような曲が出来たとしても、それは想像させればいいんであって、7人だけでやってしまえばいい。ファーストやセカンドのときは、他の楽器を入れたりしていろいろ試したんだけど、他の人が入ることでバンド7人の空気感がちょっと変わるのが気になった。だから、7人だけでいさぎよくやったほうが逆に空気感がすごく統一されるし、そのやり方で、よりリスナーがどんどん想像できるようなものにしていけばいい」(武藤)。

 その最高の成果が最新作の『フィンセント・ブルー』だ。ここには、「情景描写じゃなくて、そのときの心境をキープさせるような詞を書きたい」という武藤による、さまざまな心象が十重二十重に折り込まれた深みのある歌世界を、それぞれの〈生〉を真摯に持ち寄ったメンバーによって大胆に演奏された、まさしくオンリーワンの勝手にしやがれサウンドが渦巻いている。しなやかなロックンロールとして享受するもよし、その深みを解き明かしていくも良し。一見、相反する価値観が等価値なものとして宿された、勝手にしやがれの世界。個人と集団、不変と進化、過去と未来、偶然と必然、知性と野性、知識と実践、アートとアウトロー・カルチャー、そして、ジャズとパンク──。

カテゴリ : インタビューファイル

掲載: 2004年05月27日 12:00

更新: 2004年06月10日 19:17

ソース: 『bounce』 254号(2004/5/25)

文/山内 史