M.I.A.
降り注ぐ陽の光のような、穏やかなせせらぎのような、猛る大地のいななきのような、突然のスコールのような、そんな原色のリズムが世界中に響き渡る時が来た。革命、熱狂、衝撃──すべての言葉はいまM.I.A.のものだ!
楽しい思い出もあるのよ
ひとこと、それが言えればもうOKなんですが……『Arular』は本当に衝撃的で凄いアルバムですよ。あとでダラダラ述べていくような予備知識だとか、演じ手のバックグラウンドだとかは何にも関係ない。そんなもの知らなくても何かが伝わってくるところがこのアルバムの魅力だと思うのですが……そのへんのところはどうですか、演じ手のM.I.A.さん?
「自分ではそこまで客観的にわからないけど、自分のバックグランドをあえて出そう出そうとしてる音楽じゃないことは確かね。最終的には楽しく、力強くなれるものがいいと思っているから、そんなエネルギーが伝わっているならとても嬉しいわ」。
そう語るM.I.A.ことマヤ・アルプラガサムは今年28歳のスリランカ~タミール系イギリス人。内戦下のスリランカで育ち、イギリスに亡命してからはアートの世界で頭角を表し、『Arular』という名の強烈な爆弾を引っ提げて音楽シーンに登場したばかりの才能です。が、そうやって〈爆弾〉とかいう言葉を用いるのは不謹慎かもしれません。少女時代の彼女は本物の爆弾と隣り合わせの環境にいたのですから……。彼女が生まれてしばらく経った頃、LTTE(下記コラム参照)のメンバーだった父親が政府に追われる身となり、家族と離れて暮らすようになったそうです。それでも彼女は必要以上にその生い立ちを強調しようとはしません。強い人です。
「確かに親戚が殺されたり、飢えに苛まれたり、という辛い時代もあるけど、スリランカには楽しい思い出もあるのよ。いちばんの思い出はやはりあの国のお寺とその文化かしら。朝起きると必ずお寺の太鼓が聴こえてくるの。あの独特の匂い、色……。お祭りの時には何千人もの人がカラフルな衣装を纏って集まってきたり、独特の昂揚感があるのよね。身近な音楽は近所のおばさんが歌ってくれる民謡だったり、ストリートやお寺から聴こえてくる楽器の音色だったりしたわ。あと、小さい頃はとにかく映画が大好きで、近所の大人たちに交じって映画のことを話していたわ。月に1回、近所の家でお金を出し合ってビデオデッキとテープをレンタルして、誰かの家にみんなで集まって4本くらいのビデオを観てたのよ。その日は仕事も学校も行かなくていい、という暗黙の了解があったの(笑)」。
そんな貧しくも楽しい暮らしにも戦渦は迫り、マヤは母親たちとイギリスに亡命します。86年、彼女が11歳の時でした。
「うまく言えないけど……小さな頃から、大人になったらスリランカ中で有名になるくらい格好いいタミール女になると信じていたから、がっかりしたのを覚えている。5歳から料理と裁縫が出来るようになっていたし、カカア天下のいい主婦になれるとワクワクしていたのよ(笑)。それと、国を去る日は妙な罪悪感があったのを覚えているわ。友達に別れを告げている時も、〈手紙書くね〉〈いっしょに行けたらいいのに〉と言いながら、残された彼らはこんな幸運をきっと手に入れられないとわかっていた」。
……ロンドンにやってきた彼女は、初めて欧米のカルチャー、そしてポップ・ミュージックに接することになります。
「とにかく初めての外国だから、ワクワクしていて、都会のエネルギーに圧倒されるのかと思ってた。でも、ヒースロー空港を出て、乗った電車から見た風景は、どんよりとした煉瓦造りの家がずーっと続いている地味な街並みで、子供心に〈なんで、こんなに味気ないの? 色も塗らないのかな? いつか、ヘリコプターから大好きな色をたくさんばらまいてもっとこの街をカラフルにしよう!〉なんて思ったわ。スリランカではどんな掘っ立て小屋でも色を塗って花を飾ったりしていたからね。それで、最初に住んだ家の向かいの窓から、TVが見えたの。そこから〈Top Of The Pops〉が目に入って、ビックリしたわ。学校ではみんなマドンナに夢中だったけど、白人じゃない私は絶対マドンナみたいになれないわけだから、どこかしっくりこないでいた。そんな時にパブリック・エナミーに出会ったのよ。もちろん、私も共感できることだらけだったしね。他にはビッグ・ダディ・ケインとか。ヒップホップに夢中になったわ」。
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