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bloodthirsty butchers

グラスゴー、シアトル、オリンピア、留萌――アーリー・ブッチャーズ

連載
360°
公開
2010/03/20   17:00
更新
2010/03/20   17:06
ソース
bounce 319号 (2010年3月25日発行)
テキスト
文/岡村詩野

 

たぶん彼らは覚えていないだろうが、実はその昔、このバンドに取材したことがある。日本ではエモなんてのはもちろん、まだオルタナなどという言葉さえ一般的ではなかった90年代前半のことで、たしかUSはオリンピアで行われたイヴェントに出演するかしたか……詳しくは忘れてしまったが、とにかく、その頃に初めて吉村秀樹、射守矢雄、小松正宏の3人に会ったのだった。

当時筆者は、ティーンエイジ・ファンクラブとかヴァセリンズとか、あるいはニルヴァーナやビート・ハプニングなどと同じ匂いを彼らに感じていた。ラフで粗削りな演奏、真っ直ぐに立ち昇ってくるメランコリックな旋律、でもどこか飄々とした風合い──それは不透明な新時代をどうにかしてクリアにしようともがいている証のようなものではないかと。そして、それがまた北海道は留萌出身の若者たちが鳴らしているという事実に震えた。グラスゴー、シアトル、オリンピア、留萌──すべてが横一線であることを伝えた彼らは、実際に取材でそうしたバンドへのシンパシーを嬉しそうに語ってくれていた。

その数年後、96年に『Kocorono』がリリースされた時は本当に驚かされた。なんと洗練されてきたことか、と。洗練と言うと誤解されてしまうかもしれない。だが、そこには薄暗い新時代を模索する様子を、〈一年間〉というストーリーのなかで美しく昇華させようとする彼らの使命感が鮮やかに落とされていた。それは、洗練以外の何物でもなかった。

今回〈完全盤〉として新装リリースされた『kocorono』には、“2月”から“12月”までの曲が並んだオリジナル盤には入っていない“1月”が収録されている(吉村秀樹が監修した96年のコンピレーション・アルバム『Cinderella V.A』に収録されている“January”は別テイク)。当時、なぜ彼らは“1月”を外したのか。そして2010年のいま、なぜ加わったのか。ベックの『Odelay』、エイフェックス・ツインの『Richard D. James Album』と〈同い年〉であるこのアルバムの再登場は、その〈失われた1月〉が90年代という混沌とした時代を象徴したもので、その時代の終わりがようやく訪れたことを伝えているのかもしれない。

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