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祝グラミー賞受賞!小澤征爾生誕80年記念特集~映像とCDでたどる“世界のマエストロ”の軌跡

小澤征爾 生誕80年記念特集

2015年9月1日、日本を代表する世界のマエストロ、小澤征爾が80歳の誕生日を迎えました。開催中の「セイジ・オザワ松本フェスティバル」では「マエストロ・オザワ80歳記念コンサート」が盛大に開かれ、プログラムの最後でマルタ・アルゲリッチのピアノとともにベートーヴェンの合唱幻想曲を指揮し、80歳の誕生日を自ら祝いました。
ここでは各社からリリースされた数々の80歳記念新譜とともに、当時のニュース映像、プロモーション映像で小澤征爾の軌跡を追いながら、その時代ごとの彼の代表盤をご紹介いたします。

NEW!【2016年2月16日】
小澤征爾さんグラミー賞初受賞!
セイジ・オザワ 松本フェスティバルの公式サイトによると、小澤征爾さんは今回の受賞にあたり、次のようなコメントを出しました。
「この『子どもと魔法』は僕の大事な仲間であるサイトウ・キネン・オーケストラとすばらしい歌い手たちと創った作品で彼らのお陰で、充実した練習と公演ができてとても楽しかった。それが松本のフェスティバルの力なのだと思う。たいへんうれしく、みんなとこの作品を創れたことを誇りに思います。仲間たちとこの喜びを分かち合いたいです」

KYODO NEWS【共同通信社】YouTubeより 2013/08/23公開

2013年のサイトウ・キネン・フェスティバル松本で行われたオペラ公演ライヴ。2013年はラヴェルの2作品(《こどもと魔法》と《スペインの時》)が上演され、小澤征爾は《こどもと魔法》を指揮。2012年は病気の為に同フェスティバルで指揮姿を見せなかった小澤が、完全復活を印象付けた2013年のオペラ上演でした。作品は子供が主人公のファンタジーで、ラヴェルの色彩豊かなスコアをサイトウ・キネン・オーケストラが見事に再現。豪華な歌手陣のコミカルな演技もあいまって、楽しいステージが展開されました。
【曲目】
モーリス・ラヴェル:歌劇《子供と魔法》
【演奏】
こども:イザベル・レナード
肘掛椅子、木:ポール・ガイ
母親、中国茶碗、とんぼ:イヴォンヌ・ネフ
火、お姫様、うぐいす:アナ・クリスティ
雌猫、りす:マリー・ルノルマン
大時計、雄猫:エリオット・マドア
SKF松本合唱団、SKF松本児童合唱団 他
サイトウ・キネン・オーケストラ
指揮:小澤征爾
【録音】
2013年8月23日、25日、28日、31日 まつもと市民芸術館(ライヴ)

NEW!【2016年2月2日】
小澤征爾さんが息子の小澤征悦さんとともに40周年を迎えたTV番組「徹子の部屋」に出演。
司会の黒柳徹子さんの父、守綱氏はヴァイオリニストで新交響楽団(現NHK交響楽団)のコンサートマスターを務め、小澤征爾の師、斎藤秀雄とは昵懇の間柄でした。小澤さんも斎藤秀雄のアシスタント時代に、オケの中にいる守綱氏と面識があったそうです。

小澤征爾指揮 水戸室内管弦楽団によるベートーヴェン:交響曲第2番
2月2日放映の「徹子の部屋」では2015年9月6日の小澤征爾さんとサイトウ・キネン・オーケストラによるベートーヴェンの交響曲第2番終楽章コーダの映像が紹介されました。指揮台には椅子が用意されていましたが、「やっぱり座っちゃできないですね。だからつい立っちゃう」と立って指揮する姿が印象的でした。

小澤征爾(指揮)と征悦(語り)の親子共演~メンデルスゾーン“真夏の夜の夢”
2月2日放映の「徹子の部屋」で、息子の征悦さんより父の征爾さんが語りのキューを出し忘れたエピソードが紹介されました。

【2015年9月1日】
小澤さん、誕生日に指揮 松本のオザワフェスで
KYODO NEWS 【共同通信社】YouTubeページより


 

(1)1960年代まで
1935年、中国のシャンヤン(旧奉天)生まれ。幼い頃からピアノを学び、桐朋学園で故齋藤秀雄に指揮を学びました。
1959年9月、ブザンソン指揮者コンクールに優勝。翌年カラヤンの弟子を選出するコンクールで優勝しカラヤンに師事。
1961年には日独修好100周年記念行事にて、初めてベルリン・フィルを指揮しました。こうした活躍がバーンスタインの目に留まり、同年4月にニューヨーク・フィルの副指揮者として凱旋帰国しました。

【1961年5月5日】
バーンスタイン&ニューヨーク・フィルの来日公演で黛敏郎の「饗宴」を振る小澤征爾
(プロモーション映像より)


 

凱旋帰国の勢いをそのままに1962年にはNHK交響楽団と契約。メシアンの「トゥランガリラ交響曲」を日本初演するなど話題を呼びましたが、徐々に両者の間に溝が深まり、同年暮れにNHK交響楽団よりボイコットを受ける挫折を味わいました(いわゆる「N響事件」)。この事件は社会問題となり、井上靖、三島由紀夫、石原慎太郎ら文化人を中心に「小澤征爾の音楽を聴く会」が結成され、1963年1月15日、日比谷公会堂にて日本フィルとの演奏会が開かれました。
渡米した彼は1963年夏、名門シカゴ交響楽団が出演するラヴィニア音楽祭の指揮を代役で請負って大成功を収め、翌年より1969年まで同音楽祭の音楽監督を務めました。
1965年にはトロント交響楽団の首席指揮者に就任し、1969年まで務めます。
その間、1963年3月にはロンドン交響楽団、1966年にはウィーン・フィル、1968年1月にはボストン交響楽団、と次々と名門オーケストラの指揮台に立ちました。

【1963年1月15日】
小澤征爾 N響騒動から涙の公演
「懐かしの毎日ニュース」YouTubeページより


 

 

 

(2)1970年代
1970年代は小澤征爾の指揮者としてのキャリアが開けてゆく時代でした。
1970年にはボストン、タングルウッド音楽祭の芸術監督(~2002)、そしてサンフランシスコ交響楽団の音楽監督に就任します(~76)。
1972年には日本フィルの一部楽員と共に新日本フィルを結成し、首席指揮者に就任(91~名誉芸術監督。99~桂冠名誉指揮者)。
そして1973年にはアメリカの5大メジャーの一つ、ボストン交響楽団の第13代音楽監督に就任します(~2002)。
1974年には英国ロイヤル・オペラにデビュー(チャイコフスキー《エフゲニー・オネーギン》)。
1975年にはサンフランシスコ響と、1978年にはボストン響と初の日本公演を行いました。
1979年にはパリ・オペラ座にデビューしています(ラヴェル《子供と魔法》、ストラヴィンスキー《エディプス王》)。

【1972年~83年放映】
山本直純・小澤征爾の"友情の記念碑" 「オーケストラがやって来た」
(プロモーション映像より)


 

 

 

(3)1980年代
1980年代は小澤征爾が日本人指揮者としてヨーロッパ楽壇に本格的な挑戦をした時代と言えるかも知れません。カラヤンの後継者候補としてしばしば名前が挙がるようになります。
1980年にはミラノ・スカラ座にデビュー(プッチーニ《トスカ》)。しかしこれは苦い失敗に終わりました。
1982年6月、ベルリン・フィルの定期公演を初めて指揮。翌年、ベルリン・フィルと初録音しています(ワイセンベルクと共演したガーシュウィン)。
1983年11月にはパリ・オペラ座で、メシアンの大作オペラ《アッシジの聖フランチェスコ》を世界初演。
1984年、齋藤秀雄没後10周年メモリアル・コンサートを指揮、このとき特別編成されたオーケストラがサイトウ・キネン・オーケストラの母体となりました。
1986年にはサントリーホールのオープニングシリーズで、カラヤンの代役としてベルリン・フィルを指揮しました。
1987年、正式に活動を開始したサイトウ・キネン・オーケストラとヨーロッパ公演を行い、絶賛を博しました。
1988年にはウィーン国立歌劇場にデビュー(チャイコフスキー《エフゲニー・オネーギン》)。
1989年大晦日にはベルリン・フィル「ジルヴェスター・コンサート」で、晋友会合唱団と共に、オルフ「カルミナ・ブラーナ」を演奏しました。

【1983年6月17日】
小澤征爾/マルタ・アルゲリッチ/バイエルン放送交響楽団
(プロモーション映像より)


 

 

 

(4)1990年代
1990年代は“音楽の都”ウィーン楽壇への本格的な挑戦(後のウィーン国立歌劇場の音楽監督就任へとつながる)と、サイトウ・キネン・オーケストラとのサイトウ・キネン・フェスティバル松本が定着した時期にあたります。
1990年、ウィーン・フィルの定期公演にデビュー。同年には水戸室内管の芸術顧問に就任します(~継続中)。
1991年にはウィーン・フィルとの初録音を行いました(ドヴォルザークの《新世界より》)。
1992年にはサイトウ・キネン・フェスティバル松本が開始され、総監督に就任(~継続中)、第1回はストラヴィンスキー《エディプス王》を上演しました。同年、メトロポリタン・オペラにデビューしています(チャイコフスキー《エフゲニー・オネーギン》)。
1993年、ウィーン・フィルと日本、韓国、台湾公演を行い、1994年にはボストン交響楽団の日本公演で、ベルリオーズ・フェスティヴァルを開催しました。同年、タングルウッドにセイジ・オザワ・ホールが完成しています。
1995年1月23日、「N響事件」以降、32年ぶりにNHK交響楽団を指揮。
1997年には東京オペラシティ コンサートホール:タケミツ・メモリアルのこけら落しで、サイトウ・キネン・オーケストラとバッハ「マタイ受難曲」を演奏しました。
1998年には長野冬季オリンピックの音楽監督を務め、開会式では世界五大陸を結ぶ「第九」を指揮。パリ・オペラ座とサイトウ・キネン・フェスティバル松本との共同制作を実現し、プーランクのオペラ《カルメル会修道女の対話》を、同年松本、翌年パリで上演しました。

【1990年1月18日】
小澤征爾指揮バイエルン放送交響楽団~ベートーヴェン「運命」
(プロモーション映像より)


 

 

 

 

(5)2000年代
2000年代は小澤征爾が押しも押されもせぬ世界的巨匠指揮者として活躍した時代と言えるでしょう。また、世界各国から多くの栄典を授与されるようになります。
2000年には若手音楽家の育成を旨とする「小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクト」を開始(~継続中)。同年、米ハーバード大学より名誉博士号を授与されます。
2002年1月1日、日本人として初めてウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートを指揮。同公演のライヴCDがクラシックの枠を超えた大ベストセラーを記録し、社会現象となりました。同年、ウィーン国立歌劇場の音楽監督に就任(~2010)、最初の公演はクルシェネクのオペラ《ジョニーは演奏する》でした。同年、オーストリア政府より勲一等十字勲章を受章。また、ボストン響の音楽監督として最後の定期公演を指揮しました(マーラーの交響曲第9番)。
2003年には毎日芸術賞、サントリー音楽賞を受賞。
2004年、ウィーン国立歌劇場の日本公演で、モーツァルト《フィガロの結婚》《ドン・ジョヴァンニ》を指揮。仏ソルボンヌ大学より名誉博士号を授与されました。
2007年にはウィーン国立歌劇場名誉会員に選出。
2008年、フランス政府よりレジオン・ドヌール勲章オフィシエを授与。日本の文化勲章を受章しました。

【2002年1月1日】
[Arthaus 107189] VIENNA PHILHARMONIC: NEW YEAR'S CONCERT 2002
(プロモーション映像より)


 

 

 

(6)2010年代
2010年、75歳の年を迎えた小澤征爾は人間ドックで食道癌が見つかり、治療専念のため音楽活動の休止を公表。同年8月に復帰しましたが、以後は健康不安と闘いながらの指揮活動が続きます。
2010年11月2日、日本人初となるウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の「名誉団員」の称号を贈られ、同年12月14日 ニューヨークのカーネギーホールで約1年ぶりに本格復帰。大きな話題を呼びました。
2012年3月7日、体力回復のため、1年間の指揮活動の中止を発表。同年、「小澤征爾さんと、音楽について話をする」(村上春樹との共著、新潮社)で小林秀雄賞を受賞。
2013年には故吉田秀和の後任として水戸芸術館の2代目館長に就任しました。

【2010年12月14日】
小澤征爾さん復活!気迫のタクトに喝采
「TV ASAHI AMERICA CHANNEL」YouTubeページより


 

 

 

(7)2015年
2015年は小澤征爾の生誕80年にあたり、各社から新譜やアンソロジーが発売されました。
7月15日には日本人では初となるケネディ・センター名誉賞を受賞。8月には長野県名誉県民栄誉賞の第1号を受賞と、日本人初の国際的名指揮者としての偉業を讃える栄典の受賞が続いています。

 

 

 

カテゴリ : Classical キャンペーン

掲載: 2015年08月25日 15:00

更新: 2016年02月16日 10:00