インタビュー

AFRA

〈Always Fresh Rhythm Attack〉の頭文字を取って〈AFRA〉と名乗るひとりのヒューマン・ビートボクサーが新作をリリース!! この〈楽器〉の未来を切り拓く彼に、お茶の間からストリートまでが軒並み注目中だ!!

NYで生まれたヒューマン・ビートボクサー


〈ボッツッ、チキチキ……〉って、〈ガキの使い〉じゃなくて、人間がその口を駆使して表現する人力リズム・パフォーマンス=ヒューマン・ビートボックスのお話。NYのストリートから発生したといわれるこのリズム遊びの種は、ダグE・フレッシュやファット・ボーイズといった先達によって芽生え育ち、ルーツのようにポピュラーなヒップホップ・バンドにより世界中に広められ、やがて日本の若者に行き着いた──80年に大阪府吹田市で生まれ、いまや日本で知らない者はいないであろうヒューマン・ビートボクサー、AFRAに。ロボ宙の2002年作『銀河飯店』への参加、シンコ(スチャダラパー)のプロデュースによるデビュー作『Always Fresh Rhythm Attack!!』のリリース、そしてDEV LARGE、テイ・トウワ、HIFANA、AI、MIC BANDITZ、DJ KENTAROなどとのジャンル不問の華麗なる共演歴、そして彼のパフォーマンスの魅力を伝える媒介となった複合コピー機器のTVCM。そもそもは高校時代に持っていた国内/海外のヒップホップMCたちへの憧れ(文化祭で、あの“証言”を演ったこともあるそう)からマイクを握ったAFRAの物語は、いくつかの印象的な事件を経てヒューマン・ビートボクサーの物語になっていく。まずは高校2年の夏休み、1か月間滞在していたというNYで。

「そのときセントラル・パークでフリー・コンサートをやっていたんです。もともとその日はトライブ・コールド・クエストがライヴをやる予定だったんですけど、急遽キャンセルになって代わりにルーツが出た。そこでラーゼルのビートボックスを観て〈うわーーー!〉ってショックを受けて。あれ(トライブのキャンセル)がなければ、自分はヒューマン・ビートボックスをやっていなかったかもしれない(笑)」。

 ラーゼルのパフォーマンスとNYの雑踏に刺激を受けた彼は、高校を卒業して1年もすると留学のためNYに渡る。「ヒップホップでガシガシやっていこうという気はなかった」そうだが、見よう見まねでビートボックスの練習は始めていた。彼いわく優れたヒューマン・ビートボクサーに必要な要素は、音楽性、リズム感、ピッチ感……の3つだそう。当時、彼がどれほどのスキルを身につけていたのかは想像できないが、〈場の音楽〉であるヒップホップにとって重要な要素=コミュニケーション能力に関しては、すでに抜群だったようだ。NY郊外のロングアイランドで暮らし始めて1か月、今度は高校2年のときにラーゼルのリリース・パーティーで出会った地元のビートボクサーたちとの再会を果たす。

「(仲間との再会は)デカかったですね。ビートボックスをやってるヤツが近くにいたし、自分よりも上手かったから技を盗んでいって、そのうちこっちからも仕掛けていくようになった。その後フライヤーにも〈From Japan〉とか名前を載せてもらって、ライヴに出るようになった」。

 ヒューマン・ビートボックスは、身体ひとつあれば〈どこでも、誰とでも〉できる。「名前のある人もいれば、アンダーグラウンドでやっている人もいた」という当時のセッション相手は、アパニ(B)、TESといったヒップホップ連中から、CIBO MATTO、ジョン・ゾーンなんて名前まで。西海岸を訪れた際、カフェでビートボックスを披露しているとミッションのメンバーがラップで絡んできたこともあったそう。またグループとしての活動は断続的ながら、ヒューマン・ビートボックスの始祖=ダグE・フレッシュの近所で育ち、その技を磨いてきたエマノン、ラーゼルの作品にも客演した経験のあるケニー・ムハマドらとの5人組ヒューマン・ビートボックス・グループ、MB2000にも参加していた。

「MB2000でセントラル・パークのラーゼルのステージに前座として出た時、〈あ、俺はこれで行こう!〉って調子に乗って思ったんです(笑)。その後日本に帰ってきたら、NYで知り合った友達から〈イヴェントやるから、もしよかったら出てくれ〉って言われて。それがロボ宙さんと (スチャダラパーの)ANIさんが出演したイヴェント」。

▼AFRAの作品および客演作品を一部紹介

カテゴリ : インタビューファイル

掲載: 2004年12月09日 13:00

更新: 2005年01月13日 18:05

ソース: 『bounce』 260号(2004/11/25)

文/リョウ 原田