インタビュー

ラティーノ産R&Bの根源となるセレーナとクンビア・キングス

 スペイン語による初の全米No.1ヒット、ロス・ロボスの“La Bamba”が生まれた87年は、もうひとつ、リンダ・ロンシュタットが初のスペイン語作『Canciones de Mi Padre』をリリースした年でもある。メキシコ系の音楽家だった父親が愛した歌を彼女は取り上げ、ジャンルの垣根を越えて全米チャートを昇るヒットにした。そんな87年に〈テハーノ・ミュージック・アワード〉で女性ヴォーカル賞に輝き、頭角を現わした新星がセレーナだった。89年にはEMIラテンと契約し、『Selena』をリリース(家族グループ、ロス・ディアス名義盤を含めると通算6作目)。90年の『Ven Conmigo』はゴールド・ディスクも獲得している。それでも当初の人気は、テハーノらメキシコ系のなかに限られていたと思う。それが大きく変わりはじめたのは92年の『Entre A Mi Mundo』からだ。全米で2,000万人を突破したヒスパニック人口、さらにはメインストリームの動向も睨み、英語によるR&Bナンバー“Missing My Baby”もセレーナは歌っていた。

 そして、フランキーJ・ナンバーのプロトタイプともいえそうなこの“Missing My Baby”を作り、セレーナの音楽性に多大な影響を及ぼしていたのが彼女の実兄、AB・キンタニージャ3世だった。95年にセレーナが非業の死を遂げると、彼女の遺志を継ぐようにしてABはクンビア・キングスを結成。ロジャー・トラウトマンをフィーチャーした“Together”、R&Bヒット“U Don't Love Me”などを含む99年のデビュー作『Amor, Familia Y Respeto』はゴールド・ディスクに輝いている。そのABが新たに結成したクンビア・オール・スターズも注目の存在で、レゲトン(やブラジル音楽)までを視界に捉えた音楽性はさらなる勢いを感じさせるものだ。


フランキーJ在籍時の同2003年作『4』(EMI Latin)

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カテゴリ : インタビューファイル

掲載: 2006年12月07日 20:00

更新: 2006年12月07日 21:29

ソース: 『bounce』 282号(2006/11/25)

文/高橋 道彦

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